愛の存在
プロローグ
人を愛するとは?
一人の人を、たとえ婚姻することなく別れても、離れて生きていても、他の人に心を移さず死ぬまで、その人だけへ慕う情を持ち続けること。
おとこもおんなも、こんな愛がまことにできるのだろうか。
そんな愛一筋に生きる人が、もしこの世に存在しているのなら、この人は、冷徹な頭脳の持主で、氷柱に取り囲まれたような孤独にも耐え抜く神経を所有し、冷酷に人付き合いを嫌うであろう。
男には、このような人間がたくさんいると思えない。
むしろ、ほとんど多くの人間は、失恋しようとしなかろうと、感情をあらわに、欲を表現する動物のように愛を求め、たむろして生きている。
であったら、おとこもおんなも、人の集まる中に自分を任せ、興味が持てる異性との出会いを探すのが自然な行動なのだ、
と、男はこう想念する。
愛を感じ始めるのは、青春の頃。
目覚めた性的欲求のため、人は動物的本能に変身するから、ひとりでは生きられない、孤独から解放されたい、異性と一緒に暮らしたい、と願うのだ。すなわち、心の不安定要素の代用を必要とする時宜に、愛が目覚め創めるのである。
恋愛の末、子供が産まれる。おとこもおんなも愛が深まったと知る。この愛は子供へのもので、男女のあいだの愛を深めたものではない。このことを理解しないで、錯覚のまま生活をすると、おとことおんなの仲が破局を迎えることになる。
こんな思念をめぐらせている男が、引越しの仕度を始めて二日目のことだった。
二十代のアベックが、駅前の不動産屋に連れられて、お袋が死んでから開店することがなかった喫茶店舗を下見に来た。
「この店で、成功したらさぁ。一緒になろう。それまで二人で頑張ろう」
「ええ」
愉しそうに、未来を語り合っている。
「小父さん、この棚にあるジャズレコードも、居抜きだから付いているの」
おそらく不動産屋に訊ねたのだろう。男は、父親が残したジャズのレコードも置いてゆく積りだったので、はい、と答えてしまった。
男は、喫茶部分も含め、自宅を駅前の不動産屋に買い上げてもらったのだ。とくに店舗における条件は居抜きの約束である。店と住居は一つの屋根の下なのに、この二人は店舗だけを借りるのか、住いを確認しないで帰ってしまったのが、男には不思議だった。
今の俺には、そんなことなど、どうでもよい。自分の愛のため、五十年近く住み慣れた家を、まさに手放したのだ。
人生経験で見極めた愛、その人へ捧げる愛のために、その人の住む街へ移り行くのだ。
この先、新たな愛に心が惹かれないとも限らない。改めて始まる愛に触れたなら、草花が新芽を吹く春の温もりのようで、心が浮かれるだろう。面白さに心を奪われたなら、転居したその人の街には居られないだろう。
こうなっても俺には、二度と戻れる家はないのだ。新しい恋に溺れるより、故郷のないことのほうが恐い。だから、寂しいだろうが、改めて始まる愛は拒否するだろう。
愛の形を作った自分の決意と、いつ生まれるかわからない恋愛感情の狭間を、苦慮しながら男は、引越しの準備をしていたのだ。
前編
① 学生
男は写真に収めるため、体を後退りさせた。背中が、女性の柔らかな胸の温もりにぶつかり、時を置くことなく、
「あぁ、すまない」と、振りかえらず声で謝る。
昭和三十九年十月十日。
台風の接近により、土砂降りの雨が降った昨日と打ってかわり、抜けるような青空の秋晴れになった。
東京オリンピック開会式の日である。式典の時間やタイミングに合わせるため、速度と高度を計算し、入間基地を飛び立ったブルーインパルスが、午後三時十分二十秒、五色のスモークで、明治外苑に隣接する国立競技場上空に五輪を描き始めたのだ。
男は大学の校舎屋上で、五つの輪をすべてレンズにとらえようと引き下がった。この拍子に、はからずも見上げていたおんなに触れてしまった。
「ちゃんと、顔を見て謝りなさいよ」
半ば強引に要求してきた。
男は、胸元で腕を組み、首を斜めに力のある大きい目で睨むおんなにたじろいだ。
均整がとれた体の線に惹かれ、和服がよく似合いそうな鼻筋が通った顔立ちに興味をそそられつつ、取り繕うように頭を下る。
ブルーインパルスが、まるで凱旋したかのように飛行して帰投につくと、五輪のスモークが消え、だれもが、わぁすごい、と感動をあらわに散っていった。
あくる日。
男は駅前通りの坂道を上がった、麻雀屋横にある喫茶店に入った。
まったく予期していなかった。女性同士でいるピンクのニットウェアを身にまとった昨日のおんなを、男は見掛けた。
彼女のほうも気づいたのか、幾度も視線を投げてくる。
男は入学して初めて心臓の鼓動が烈しく動くのを感じ、同時にうきうきしている自分が自覚できた。
「昨日はどうも」
女性のテーブルに近づき声をかける。
やはり彼女も好みのタイプなのか、この頃にしては長身で、がっちりした体格の丸みを帯びた幼顔へ、抵抗なく会釈をすると白い歯を覗かせた。
ほかの二人も釣られるように一笑した。
「授業の空き時間を潰しているのだが、一緒してもいいか」
「どうぞ。私たちもそうなの」と、応じた一人の女性が、男をまじまじと見詰め、何か気にかかるのか顔を歪める。自分を追いかけるように注視する女性に一抹の懸念を抱くが、礼儀として、はにかんで俯き加減に男は腰を下ろした。
「やっぱり、恩田君だ。覚えている、私?」
まるで見覚えがない。
「中高の二年生まで同じクラスだった、だるま屋の滝元玲子よ。タッキーよ」
てらわず飾らない、擦れ声の滝元玲子。
彼女と中学は同じ学区で、しかも高校のとき二年生まで同じクラスだったこと。大衆食堂の活発な娘で、男が仲間とこの店に集まると必ず参加してきたこと。
滝元の声色で風化仕掛けていたその時分の記憶を、男は思い出した。
「タッキー、おぉー、滝元か。奇遇だな。同じ大学だったのか。知らなかった」
彼女達は軽音楽部の仲間である。
男は放送研究会のアナウンス部に所属し、軽音楽部との交流が伝統的にある。とくに演奏会の司会を、アナウンス部の一人が専属に受け持つしきたりになっている。
滝元とは顔馴染みで、四人で会話する話題に事欠くことはない。打ち解けて話したり笑ったり、授業の時間を忘れてしまう。結局のところ、喫茶店から居酒屋へ移り、午後九時ごろまで皆で過ごしてしまった。
男は、これがはずみで魅了された榎田三津子へ交際を申込み、つつがなく付き合いが始まった。
望んで接した三津子に会う度、絶えず小田急相模大野駅で分岐する、江ノ島線中央林間駅まで送らされた。
男が住む下北沢に比すると、彼女の自宅がある中央林間は、雑木林がプラットホームから眺望でき、ばらばらと家が建っている。乗降する人もまばらで、街灯もちらほら、駅前広場へ続く改札が一箇所あるだけの鄙びた駅舎だった。
昭和六年ごろ、中央林間辺りが林間都市建設計画で宅地造成された。
榎田の祖父は南林間に居住し、借家も多数持っているのに、あえて自宅の屋敷を売り払い、この辺りは将来開けると、売行きも芳しくないのに広大な土地を買い占めた。先の見通しに強いと豪語する祖父は、購入した中央林間の地に、古めかしい家を建設した。金銭感覚に長けた頑固な祖父が建てた家を、親が継ぎ、祖父の性格を、私が受け継いだのよ。
彼女が、つまらなさそうに漏らしたことがあった。
そんな三津子と滝元玲子は高校生活までの環境は違っていても、似通った考えなのだろう、しかも同じ部活で共通する趣味も手伝って、親友になっていった。
三津子と交際して二ヶ月が過ぎた頃、思いもよらず男は、軽音楽部の演奏会の専属司会を任され、彼女と一緒にいる機会に恵まれるようになった。演奏会の都度、二人は恋人気分で恋愛の雰囲気をあじわっていた。
四年生の卒業式が間近に迫る二月。
放送研究会の追い出しコンパが催された。二次会の後、男に司会を指導してくれた先輩が、行き付けのスナックへ連れてくれた。
これが切っ掛けになり、演奏会終演の日やアルバイト料が入ったとき、男は三津子と、ときには玲子も連れ添い、その信濃町駅横のブラックキングというスナックへ好んで通うようになった。
ここで酒を飲むと、粋な境地に浸ることができ、学生を忘れるひとときが愉しかった。
恋しく思いあう男と三津子の学生生活は、時間を忘れるように過ぎていった。
不況対策として戦後初の赤字国債が発行されようとしている。
経済学を専攻する男は、まさに反対すべきだと教わり、それに賛同したが、世相は動こうとしない。藩券を発行した時代よりは信用できると、男は独り承知していた。
卒業後に結婚の約束を誓い合った二人は、ブラックキングで記念の祝盃を挙げた。この日、中央林間へ送っていく小田急の車中で、独り善がりの論理を男は三津子に説いた。彼女は反応を示さないどころか怪訝な顔をこわさず、男は萎えてしまった。
「デイトのときに話すことなの。三津子より、大切なことなの、正明」
「まさか」
「そう、今日十月十日。私たちが初めて出会った記念の日。それに学生という身の上で、結婚を約束した、大切な日よね」
電車は空いているとはいえ乗客を気にも留めず、三津子が鋭い目で威圧した。
やがて中央林間駅に着く。
普段なら駅まで送り別れるのだが、三津子は改札口で車中から消沈している男の手を取ると、駅前広場を通り越し、自宅と反対の暗い道へ踏切を渡る。数軒の店舗を過ぎ、広い空き地と道の暗闇に立つ一本松の陰に隠れるように男を導いた。
三津子は樹に背をよりかけるや、先刻、結婚誓約の印として男にプレゼントされた、首にかけた金の鎖にぶら下がる、ペンダントトップを手の平に載せて示した。
彼女はペンダントを見せながら、虚ろな目をずらさず男へ向けていた。
時折、雲の切れ目から射す月明かりに白く光る歯を、半開きの唇から覗かせる。
男にすれば、ペンダントどころではない。彼女の目、唇におんなの情欲を覚える。
昂奮で痺れる神経を悟られまいと、男は行き成り自分の唇を彼女のそれに当て、吸ってみたり舌を入れたりしたあとで抱きしめた。
こんな遣り方で良いのか困り果て確かめたいが、確かめることをすれば、初めてのキスの経験が見抜かれる。
男はおざなりに、関心を示さずこの日は別れた。
かぐわしいコロンの香りが残り、これが女の匂いか、ただよう彼女の香気か、男の脳裏はぼんやりとして、この夜、寝つきが悪かった。
初めての口づけから幾らも経ってない演奏会終演の日、男と三津子は信濃町へ赴く。ブラックキングはなぜか閉まっていた。
夜の散歩がしたい、と彼女が言ったので、神宮外苑へ足を運んだ。
まだ寒くはないが、寄り添ったカップルがベンチを埋めている。暗がりの、やっと見つけたベンチに座り、場が醸し出す影響か二人も口づけをかわした。すると初めて口づけた日のコロンが再び香り、性的欲求が男の体を燃やす。
耐えられず男性として起こる生殖器反応が見破られないよう、冷静に立ち上がろうと男はしたが、でも騒ぐように立ち上がってしまう。
四谷へ向って歩き出した。
不自然な歩調、男はわざとらしい挙動で周りの街並みを見渡し、ぎこちなく彼女の肩に手を絡ませた。
途中、温泉マークの灯りが点いた旅館に胸が高鳴る。
君を愛す、君が欲しい、と言葉を放ちたいが口が動かない。男は焦るように、肩にある手を力任せに引き寄せ、旅館へ彼女を強引に連れ込んだ。
だが、彼女は手向かいをしてこない。おそるおそる視線を向けると、その横顔には緊張の色があった。
六畳一間に裸電球のスタンドと布団が一式。その上で男の肉体を女の体に重ねる。みょうに素直に受け入れた彼女は行為が終ると、裸体のまま男に背を向けて横たわっていた。
この先何をすれば良いのかわからない男は、寝息を立ててうそぶく。
このときが、おんなの体を初めて知ったのだ。
以来、自分の欲求を癒すため三津子がいるかのように、男は演奏旅行や飲み会の夜、彼女と情をかわすようになった。
明けて七月・山梨地方の定期演奏旅行先から新宿駅に着いた。
「信濃町に寄ってゆく」
男は慣れた慎ましい口調で声をかけ、総武線ホームへ体を向けていた。
「いや、家に帰る」
三津子はそう言うと口を両手で押さえ、うぇ、声を発し、小さく噎せ、えずく。
「列車に酔ったのか? 気分が優れないのか?」
すかさず問い返した男は、彼女の肩に右手を置いた。
「平気……」
三津子は、すぐに平常に戻り、
「いつものように、送って」
小田急線乗り場へ足を進め、中央林間駅に到着した。
「気分は、どう?」
懸念を抱く質問に、にっこり微笑んで男に応じる。とりあえず家の近傍までと、男も改札口を出た。
三津子は男の手を引き、空き地横の一本松へ導いた。
しばらくの沈黙を破るかのように、唇を尖らし話し出そうとしたとき、男は腰に回した手で三津子を引き寄せた。
彼女は両手で男の肩を強く押し、体を仰け反った。
「駄目」
「まだ、電車に酔って、調子がよくないのか」
「そうじゃないけど。やっぱり男の人は、鈍いのね」
男は三津子の意味することがわからない。何が口づけすることを拒否しているのだ。判断する材料が見つからない。
山梨県松本駅から中央林間の一本松までの長時間、彼女が嫌う煙草を我慢している男には、拒まれた口づけの反動と重なり苛つく気持ちが露見しそうになった。
「落ち着かない?」
男は素直に、首を下に動かす。
「でしょうね。煙草、吸ってもいいわよ」
奇妙な感じはしたが、彼女に背を向け急いで煙草を吹かし、男は夜空へ煙をゆっくり吐いた。左の手を一本松に持たせ、右手の煙草を幾度か嗜むと、振り返り三津子へ視線を送る。
三津子は鷹揚に構え男をとらえている。男は二重瞼の丸い目を細めて笑みを浮かべた。
「正明」
「うん」
煙草を捨て足で揉み消すと、右手も一本松に支えさせ、憂えをおびた顔をする。
「違うの。大切な話しなの。聞いて」
男は左右の手を一本松から離し、一歩、三津子を見たまま後方へさがり背を向けた。
「正明、わた、し。授かったの」
「授かっ、た?」
男は繋げずに再び三津子へ向きかえる。
「そうなの、あなたの……、授かりました」
授かるとは何を、と疑念を抱き、無意識に煙草を口に銜え火を点けていた。
「駄目。赤ちゃんに悪いわ、よ」
と、ふざけ気味に言ったが、男に変化がなく三津子は続けた。
「何を考え込んじゃって。私たちの赤ちゃんよ」
男は、しょう気づいたのか、ふためいて煙草を落としてしまった。
「私、産みます。あなたの子供」
「俺の子供。――そう、そうか」
はしゃぎたい気分が、男の体全体に湧き上がっている。
「産もう、育てよう。当然だろう、三津子」
まるで男自身が赤ん坊のように、何も考えずに気楽に答えている。
三津子には、そう見えるし、しかも、そんな簡単に口任せを言って、片付ける問題ではない。私は、そんな返事を待っていない。
怒りで動揺が隠せない。
だから、次の言葉を鶴首して三津子は待ったが、男はしゃがみ煙草の火を消しているだけで、かえってこない。
「ばかじゃないの。子供なんか産めるわけなんかないでしょう。育てることなんか、できないでしょう」
ついに三津子は、強固な意志を示すように発言した。
「どういうことだ」
男は鋭く三津子に迫った。
今の情況で、立場で、出産することは、生まれてくる子供に、親として無責任です。
胸に刃物が刺さり、滲み出る鮮血を押さえ耐えている心境の私を、三津子の心持ちを、男が慰め、将来の計画を述べて静めてくれる、きっと説得をしてくれるはず。
期待をして、三津子は男の答えを待っていたのだ。
だのに、ただ安易に産むと望む男へ、三津子は蔑んだ目付きを向けた。
「あなた、学生でしょう。お金などないでしょう。私も学生よ。お金などないわ。それにどこで二人暮らして育てるの。バカみたい」
男には即座に答えることができない問いかけだった。男の脳は回転しない。思考力はゼロ。ただ黙止しかできない。
「なんとか、言いなさい。これから、こうしたいとか、こうすればいいとか、何とかいいなさいよ」
三津子は、張り上げる声で詰問すると、一言の反論も口にできずにいる男の顔を、わずかのあいだ目を凝らしていた。
やがて、物静かに彼女が語りだした。
「子供は、病院で堕胎します。中絶手術の日に玲子の家に泊めてもらう。玲子にはお願いして承諾をとるわ。あなたには父親として中絶承認のサインと捺印をお願い。当然よね。これから大きな罪を、二人で背負っていきましょう」
男は、煙草を吹かし始め、二・三服すると呟いた。
「どうせ、子供、殺すのだ」
煙草を口の開く限り吸って、ありったけの力で煙を吐き出した。
「……そうね。ご勝手に」
三津子の下瞼に涙が滲み出ている。男は、その涙に女の哀愁を感じてはいたが、ただ煙草を銜えて夜空を見上げているだけだった。
② 社会人
ゼミの教授の支援も受け、男は中堅の証券会社に難なく就職をした。
彼女は職に就こうとしない。彼女は働く意欲も示さない。それどころか子供を堕胎した罪に苛まれるのか、三津子は結婚を急いできた。
男は受け入れる本意が薄れたわけではない。自分の母親のことを案じていたのだ。
男が六歳のときだ。父親が結核で死んだと聞かされた。又その頃、赤痢が大流行し二歳上の兄も死亡した。母は父が残した喫茶店だけでは食っていけず、ときに日雇いで働き、夜はビアホールなどで収入を得ていた。父は亡くなり、二人兄弟の兄も死に、せめて正明ぐらいは、と女手一つで男を大学まで出してくれたのだ。
中学の何年生かは忘れたが、近所の親父たちから、赤線やアルバイトサロンで母親を見かけたと、噂を耳にしたこともあった。
今は五十歳半ばも過ぎ、一人で小さな喫茶店を営み、細細と生計を立てている。
就職したなら、男は母親に恩返しの気分で給料の幾らかを渡して、暮らしの一部にして欲しいと考えていた。だから、卒業と同時に結婚の段取りを始めるには、いくらかの時間が必要であった。
男の本音を三津子に吐いた。彼女は、さしあたって結婚の意志を親へ打ち明けて、許しを得て、と積極的に要請してきた。
男は、このときの三津子の話し振りに、何か目論見がある印象を受けたが、いずれ三津子の親に申し込まなければならない。三津子と幸せな暮らしが築ける、そう疑わなかった男は、彼女の要望を簡単に受け入れ、親に会うことを承諾した。
会って、親がかえしてきた答えは、結婚は許さない。
彼女の親が描く結婚の理想像と、現に話をしているこの局面とは、男にして育った環境も経済的にも厳しくくいちがう。男は自分自身がこれから頑張って準備すれば、三津子と結婚をする時期までには、いくらか解決できる。そう偶感する意外に手立てがなく、呑気に構えているしかなかった。
一方の三津子は、半年・一年ぐらいなら待つか、と観念をしていた。
三津子の父親は、祖父の代から続く大地主で借家も多く、しかも国債や株取引など運用好きで、金に執着心を抱いている。こうした関係で銀行にもよく知られ、便宜が受けられる立場だった。彼女は父親が関係する一つの大手銀行へ、とりあえず就職をした。
彼女の両親に会って五ヶ月。
男はブラックキングでウイスキーをロックで呷っていた。
榎田三津子はまだ来ない。逸る気持ちに連れウイスキーが進む。心許無く映るのか、カウンター越しに店のママが、ちょいちょい見ては視線を外す。
酒の酔いも程好く、彼女が店に来るまではと注文を躊躇する男は、苛立たしさが増してきた。
「ママ、おかわり」
「三津子さん、来るのでしょ。恩田くん、これ以上、飲まないで待ったら」
ママの問い掛けにむかっとくる男は、氷だけのグラスを口にもっていく。
「何か、訳ありね」
ママは、意味ありげに苦笑し、ウイスキーをつくる。
人生で厭な事をごまかすため、仕事の愚痴を言うため、楽しいことを増幅さすため、あるいは、店のおんなを口説くため、おとこたちは酒を飲みに来る。ママはこのような数多い人間を観察して、鋭い洞察力が身についているのだ、と男は直感した。
三津子の両親に会って以後、この先、結婚を申し込んでも賛成されない予感がする。いっそう注意を促し確かめておこう。不安を募らせる男は、彼女の心中を試したく思っていた。
その日が今日である。
今から邪推をする男は、酒の力を借りて、
──反対を押し切って、親を捨てられるのか、と彼女の心に問い質したいのだ。
まずはこの店で軽く酒を飲み、中央林間まで送る。そして一本松に行き、三津子の気持ちを白状させる。これが、落度がないように入念に仕上げた筋書きなのだ。
残業がある、と上目遣いでみずから指定した時刻になっても、あらわれていない。学生時分から、彼女が待ち合わせ時間を決めても、遅れることはしばしあった。
その頃から、馴らされているはずの男だが、意気込んでいた気力も滅入りだし、グラスの氷を口で噛み砕きウイスキーを流し込んだ。
店のドアーが開いた。今晩は、と言う声で彼女ではないと肯定ができたが、女性のしわがれ声に色気を感じ、男は首を入口へ向けると同時に、はっと顔を隠すようにグラスへ視線を移した。
「恩田君、待たせたわね。三津子から連絡をもらったの」
膝上五センチぐらいの真っ赤なスカートにグレーのジャケットを着た小太りの玲子が、男の肩を叩いて横の席に着く。
三津子と喫茶店で再会したあの日、玲子と学友であることをあらためて知り、以来、これが機会に旧知の間柄がよりも二人は深まった。重ねてサークルでの演奏会旅行や三津子の親友という関係で、男はかっての玲子とのかかわりより、さらに昵懇になっていた。
「まさか、榎田は来ないのか」
「ええ。残業が長引きそうで、仕事が終ってからだと、相模大野で終電に間にあわなくなる恐れがあるそうよ。仕方ないよ、中央林間は遠いよ」
玲子は大きくひろげた口を隠すことなく笑う。
「で、なぜ、滝元が来たのだ」
「ひとりじゃ、かわいそうだから、玲子がお相手をしてあげて、だって。本当に久しぶりだから、まぁ、いいかと思ってさ」
学生の頃なら電話で済ませたことを、これが社会人の気遣いとでも言うのか。
玲子は、学生の時から店に来るたび飲むカクテルを頼むと、左手を頬に目元を緩める。
「わざわざ自宅から来たのよ。ご馳走してくれるよ、ね」
「ああ。でも、婚約者に叱られないか」
「平気よ。優しい人だよ」
そう言い切れるのは、一流の大手商社に勤める彼氏が、我儘な君を受け入れているからだ、と云いたいが、言えば二言三言反発するだろう。気後れ言葉にはできなかった。
このとき店内に流れるレコードが終った。
「ママ。今度は、モダンジャズがいいな」
口早に言って、肘を付き煙草を持つ右手を口で燻らした。
問題なく結婚話がすすみ、横で美味そうにカクテルを飲む玲子を眺めていると、どうして三津子の親が結婚に反対したのか、その理屈が脳裏をさ迷い、腹が立ちだす。おさまりのつかない感情が結ぼれ、男は気持ちの終止が付かない。そこで、巧く結婚話しが進行する玲子の、結婚に対する考えが知りたくなってきた。
男は、姿勢を崩さず、まるで独り言のように問う。
「ねぇ、滝元。お前の結婚条件とは何だ?」
出し抜けの質問に玲子は、テーブルを指でトンコンとリズムを叩きながら喋り始めた。
「結婚の条件ね。それは、愛情が一番よ」
言うと潜めた声で笑う。
「でもね、恩田君。やはり愛を育む経済環境も大切だわ。お金がないと、家庭を守る主婦としては先が不安だし、何かと夫婦喧嘩の種になると思うわよ」
手で包んだカクテルグラスへ目を落とし、玲子はなぜか何度も首を上下に振って、ひとりで頷いている。
下北沢での大衆食堂が、そんなに繁盛するわけがなく、両親がよく金銭のことで夫婦喧嘩をしている姿を、玲子は目についていた。子供ながら辛い思いをしていたことが目頭に映り、玲子はしばらくその往時に戻ってしまった。
「おとこが働き、おんなは家庭を守る。だれが決めたのだ。金がなければ共稼ぎしてもいい。協力するのが夫婦というものだ」
男はこれが正論なのだと、玲子の話を力んで打ち消したが、玲子は、また続けた。
「それに、女性は子供を授かりたいのよ。そのときのために、やはり安定した収入を求めるわ。おんなが子供を育てて家庭を守る。そうであるから男は、安心して働けるのよ」
男は理不尽な女の要求に思える。
「この道理は、普通でしょう。そうよね、その上に財産があれば、安心して子供が育てられるわよ。それに家柄が良ければ、子供の将来にも善いかもしれない。なんて……」
これが真実よ、といわんや得意そうな顔で男に自慢する。
三津子の母親と同じことを並べる。年月を積み重ねても重ねなくても、おんなは皆、同じ思考回路を持つ動物か。
「金がないなら、初めから出産計画して子どもを作ればいい。今の時代、子供は授かるものと決めているのが古いのだ。財産なんて作り上げていくものだ。腹が立つ、むしゃくしゃする」
男は若い。自分が抑えきれなくなっている。
「ママ、おかわり」
ママは男の心理を読んだのか、ただちに作り差し出すグラスを、男は一気に飲み干す。この振舞をじっと見つづける玲子は、たえられずに噴出したくなる。
「恩田君は、現実が感じ取れない人だよ。未だに大人になりきれていないのね。三津子がよく話していた、学生の恩田君が見えてくる。三津子も、きっと、そうだったのよ」
「そう、だった?」
何が言いたいのだ。男は一つ深呼吸をすると玲子を睨み付け、もういちど訊ねた。
「そうだった、とはどういう意味だ」
「学生のとき、三津子はね、恩田君の子供が産みたかったのよ」
「嘘だ」
「そう、恩田君はそうして、即座の思いつきで何事も決め付けるの。先のことを考えないで、人の話を聴かないで自分の思ったことを押し付ける。そこが不安なのよ、女性には」
玲子は勢い込んで口論するように答えた。
苦しめられている。胸が重い塊で締め付けられ、頭がぐらぐらする。男は玲子の目に焦点を定めるのが精一杯になっている。男は、酔いが頂点に差し掛かっている。
玲子はグラスの残りを飲み、男の髪の毛に手を翳した。
「学生のままよ。まるで子供よ。でも、私にはとってもかわいい。大好きだよ。恩田君のそういうところ。聞き分けのない高校生のおねだりみたい」
学生のままでは幼稚扱いなのか、頼りないのか。具体的に聞き質したい衝動に駆り立てられるが、玲子の説明がじれったく、もう酒も飲めない、もうどうでも良くなり、男はすっかり意図する目的を忘れてしまっていた。
まだ終電には時間があるが、二人は店を出た。
幾日か経って、
「中央林間駅前広場で今夜、夜祭があります。両親は不在です」
さりげなく艶かしい声で三津子が連絡してきた日曜日。
端正な身のこなしで、朝顔柄の浴衣が似合っている彼女と、露店の提灯に惹かれ金魚すくいに戯れた。
「ねぇ、正明。お腹が空いてこない」
その一声で、周辺をぐるりと男は店を探した。駅近傍でただ一軒の喫茶店が目に入る。
「あの、茶店(さてん) に行くか。なんなり食事らしい物があるだろう」
二人はぐらつくことなく喫茶店に入った。夜祭のためか、店内は賑わっていた。
食事が終わり飲み物を飲もうとしたときだ。
彼女は椅子の背もたれと平行に背筋を立て、拳を膝のそばで軽く動かし小さな声だが、まるでシュプレヒコールのような言い方で語りだした。
「正明、私もうじき、二十四歳になる。結婚を急ぎなさい。正明。三津子にはお見合いの話がありますよ」
男は驚いた。
「それで?」
尋ねたがまた同じ文言を同じような言い種で喋るだけだった。
じれったくなる男は、焦って苛立つ気持ちを表現するかのように、強い口調で話した。
「以前にも言ったよね。俺が三十歳になるまで、結婚は待って。母親に金銭的な援助も必要だし、生活費の余裕もいる。結婚を早くするのなら、共稼ぎをして欲しいと、言ったよね」
「いや」
即、三津子は断る。
「俺は、若いからさ、初めから金持ちでもないのだから、仕方がないだろう」
「……」
無言を貫いていた三津子が、言いづらそうに言った。
「じゃ。お見合いしちゃう。いいのね」
「どうして、そうなるのかな。俺にはわからない」
会話が途切れた。いつまで経っても肝心な二人の将来を、確かめようとはしないし一度たりともせっつこうともしない。
顔を傾げながら彼女は、幾度となく男を覗き込んだ。
お見合いをする、と同じ話をくりかえす彼女の気障りな物言いが、男には、飽き飽きするものを感じさせていた。
座視する彼女に、男は気迫も張り合いもなくし、妊娠中絶を決意した夜の表情が浮かんできた。
息苦しくなる男は、生温いコーヒーを啜った。
今このとき、三津子に他のおとこと結婚するなと反抗しても、親の決めた相手と結婚をしてしまう思いが男の胸中に去来しだし、彼女自身が遠退いてしまう心配が、男の頭から離れなくなった。
とりあえず喫茶店を出た。夜祭は終盤なのか、人波もぐんと減っていた。
会えば愛を確かめるそのため、いつものように男は一本松の木陰で口づけ抱きしめた。
喫茶店での気ままとも取れる発言のはらいせか、男の手が彼女の体をまさぐるのも、今夜はさからうことなく受け入れた。
なおも三津子は、家に泊まって、と、男の背中に腕を回し誘ってきた。
家の門構えを見て、男はたじたじした。お屋敷だ。こんな所に住んでいるのか。金があるのは当り前、贅沢な暮らしをしているのも当然だ。
瓦屋根の門をくぐる三津子の浴衣姿に、江戸の時代へ馳せ、男は呆気に取られ立ち竦んだ。自然だ。よく似合う。
さらに、石燈籠を配し手入れの行き届いた庭に沿った、一間廊下の突き当たりを左に折れた角が、三津子の部屋だと誘導された。そこで男女の夜を過ごすことも彼女は許し、それは、いつもより激しく求め、彼女は燃え悶えた。
しかし、男が心配していたように、三津子が結婚の約束を反故にしたのは、この日から一か月も経っていなかった。
この別離が、男の脳裏に染み渡るのには時間がかかった。
幾月かの後。
彼女は八歳年上の大手銀行マンと結婚したと、玲子から聞かされた。
三津子に撥ね付けられた男は、休日のたび独り自分の部屋で寝そべっている。
両足を伸ばし、両手に持った彼女と写っている写真を眺め、呆然と時間の中に身を任せていた。こうしていると、しなやかな三津子の肌を指先が覚えていて、寝姿の裸体が鮮明になってくる。
いま横にはいない。それももう遠い三津子の肉体が、ふたりで溺れる悦楽の形が、男にはありありと生きかえる。
逢いたい、でも会えない。虚しく自慰行為に耽り、自分の手が股間にあることを今日もまた認識して、傷ついた志を慰めていた。
三津子と別れて、一年が去った。
男は恋人が消え、孤独で辛いと痛感したり、自分が悪かったと追い詰めたりして生きあぐねていた。
そんなある日、大学の放送研究会から現役と先輩との交流会案内が届いた。
日頃、仕事や酒で気を紛らして暮らしているより、新鮮な空気に触れられるだろう。
そう憶測する男は、参加することにした。
思惑通り後日、結婚を前提にと言い寄る女性があらわれる。
五歳年下で、三津子の体型や顔立ちに似ていたし、玲子の朗らかさもあり、相手の家庭も男の家柄とそう違わない。結婚の条件にそぐわなくもない。それなりに平穏な生活が築ける。男は安心感が持てたので、所帯を持つことにした。
妻が懐妊するのに、幾らも歳月を費やすことはなかった。
男は若さも手伝い、家族ができ父親になる気構えから、これまで以上に証券営業の仕事を深夜までこなした。
日ごと一人で家に居ることが増える妻は、活気や生気が薄れ荒涼としている心境に落ち込み、早く帰宅することを切望してやまない。そればかりか、妊娠している妻の精神状態がだんだん不安定になっていく。
男は妻と子供の将来の計画を練り、まるで逆撫でするように懸命に働いてしまう。このことが原因かどうかわからないが、妻のノイローゼが酷くなり、願う実家での出産を決心せざるを得なくなった。
戻したことが良いのか悪いのか、それとも自分が仕向けたのか、男は悩みを深めた。妻は流産をし、その代償なのか離婚を懇願してきたのだ。
何が妻の意志をかえた。
女は経済的に安定が必要ではなかったのか。だから、がむしゃらに働いたのだ。きわまる男は、受け入れるしか術が見つからず従ってしまった。
遠い昔のいつぞや、自分の子供が生まれると、男は聞いた。でも、生まれることはなかった。安堵できる今度も、やはり、子供は生まれることなく別離をした。
男にとって、夫になること父親になることは、儚い夢で終る、あわれな幻に違いないのだ、と一考してしまう。
人生なんてこんなもの。
男は、諦めて酒に溺れる日日が続いた。
おとこは結婚を裏切られると、叶わなかった女に情念を抱き、別れなければ良かったと脆い幻想を描いてしまう。
③ 同窓会
卒業以来ずいぶん久しく一度も開催されなかった高校の同窓会が、初めて開かれた。顔を合せて懐かしい男性は多いが、女性は子供の教育の時期なのか少ない。
男はパーティ会場片隅の二人掛けのテーブルに、一人腰をすえ傍観していた。一目で舶来物だとわかるバッグを手に、洒落込んだ高価な服装の玲子があまりにも際立っている。
男は、玲子の身形や気の利いた化粧に引き寄せられ、にやけた顔でぼんやり視線を送っていた。
贅沢に優雅に暮らせる身分の人たちもいるのか、感銘も受けるが、そんな玲子の結婚後の生活に、何だか寂しいものを教えられる。それにしてもよく似合って癪にさわる。
魅せられている男に気付いた玲子は、仲間を割って近づき前の席に座る。
「恩田君、離婚したのよね」
「はい、はい」
ひとまず云いはしたが、ほかに言うことはないのか。長いときを隔てていたのに、はじめの挨拶の一言がこれか。
男は瞬間、落胆したが思い直し、テーブル上のビール瓶を一本取り、どうぞ、と玲子へ注ぐ仕草をした。
長いあいだ女性と差し向かう機会がなかった男は、取りつくように玲子に魅入り、幾分か心が動揺し、じりじり落ち着きを失う。
しばらくぶりの喜びをあらわに、コップを差し出す玲子は以前と違う。いくらか痩せたのか、四十歳に間際の円やかな女の体になっていた。
「滝元。婀娜っぽい女性の肉体になったな」
言いながら恥ずかしさに沈んだ。玲子は注がれるコップを持ち、
「すけべ」
必ずしも嫌ではないのか、右目でウィンクをし、すぐ目で笑う顔を左へ倒す。
「そう、そう、三津子もいい女に、熟したわよ」
明るく談笑した。
三津子。男は消滅していた彼女が目蓋を素早く掠めたが、目の前に居る玲子へのいびつな執心を察知されないよう、ビールを口に含んだ。
コップを離し自身の羞恥心を執り成す積りで、玲子の「こどもは?」と確認するため訊ねたのだが、玲子は、やにわに眉をひそめた。
「三津子も産んだ、みたい」
なぜか、寂しそうに響く玲子の意外な返事だった。男は玲子の声に気も留めず、眠っていた三津子の妊娠を髣髴させてしまった。
いくら男女の愛の結晶が子供と言っても、学生生活の安心できない環境では産めないと言い切った三津子が、結婚と言う埒の中なら産めるのだ。
男はそう思え、さらに想像を逞しくした。
不埒にもあの時、三津子がはらんだ自分の子供が誕生していれば……と、何とも愉快な気分になった。なぜ質そうとしたのか、自分でもわからないままに男は訊ねていた。
「滝元、覚えている。俺と榎田との子供のこと?」
「もちろんよ」
「男の子それとも女の子、どちらだったか知っている」
追討ちを掛けてしまったのか、玲子の表情が強張った。
「どちらだっていいじゃないの。死んだ子の歳を数えるようなものよ」
突然、玲子は文句の言いまわしを変えた。
「それはそれで、そう、そうなの。恩田君は、まだ、三津子を忘れていない。そう。その証拠よね?」
「ばか言え。もう忘れたよ。榎田のことじゃない。聞きたかったのは、滝元、お前の子供のことだよ」
男は、焦って矢継ぎ早に答えていた。
玲子が目を逸らした。硬直してゆく顔の変化が顕著にでる。唾液を飲み込む音さえ聴こえる。男は体を天井へ反らし、険しい顔付きになる玲子から逃れた。
「本当かなぁ」
玲子の疑惑の声が追いかけた。
男はただちに煙草を銜えて火を点ける。
「ねぇ、私にも一本ちょうだい」
アルコールに弱くなったのか、すでに酔っ払った喋り方だ。
男は玲子に煙草を渡し、いつから吸うようになったのか気になるが、知ったところで何にもならない。ライターの火を口元へ持っていく。玲子は息が続く限り長く煙を吐く。
「私の体はね、子供を産むことができないの」
捨鉢に小さく語り、さらに、
「だから、女、失格よ」
口から吹かした煙草の煙を男の顔にかけ、尖った唇を横にやり自嘲の笑いを零した。
「主人はね、長い出張が多く、ほとんど家を空けるのよ。それなのに、たまに帰宅しても、もはや私の体に興味がないみたい。夫って、いや、男の人って、そうゆうものよ」
侘しく愚痴り嘆く。その所作を一変させて、
「ねぇ、恩田君。高校の文化祭での打ち上げの夜のこと……、覚えている?」
「何を」
「帰りの公園で、君はいきなり、私にキスをしたでしょう。びっくりしたわ」
男はまったく覚えがない。よみがえる事実が一つも頭の中に浮かんでこない。玲子はグラスを差し向けビールを求めた。男が注ぐと、口に持ってゆき一口飲んで、
「その上、私の胸に手を……、その手が下半身へ、私、どうしてよいのか」
内密に話しているのか小声で喋ると、もう一度、ビールをぐぃぐぃと勢いよく飲む。
「恩田君って、可愛い顔をして、真面目そうだったから。私、恩田君がとても好きだったから、許したのよ。ねぇ、思い出した?」
遠すぎる、若すぎる、女性の体に感興をもよおした男の子に過ぎなかったのだろう。男はそう感じていた。
「女は初めての経験を忘れないものよ。だから、三津子と交際している恩田君を見ているのが、とても辛かった」
服の上から触れただけだろう。高校時分のエロ写真が回転しだした中に、玲子のそれはない。だとすれば、なぜ恥じらいを追求するのだ。
どうしてこの歳になって、そんなことを話すのだ。玲子、それは告白ではないのか。
男は炭酸も匂いも味も失われたビールを飲み干してから、手酌した。
静かな時間が、いっとき流れた。
酒気が全身にまわったのか色情する玲子は、男へぞんぶんに顔をこしらえ。
「どうだ、高校から好きだった恩田正明。浮気してみるか」
顔をかたむけ、ご機嫌な声で玲子は言及すると、グラスに残るビールを一口飲んだ。グラスを置く。灰皿に残された口紅で染まった煙草を、顔をうつ伏せ揉み消す。
「やっぱり三津子が恋しいのよ」
否定したのか、聴き取り難い声を出し、ひと呼吸を置いて、
「だから再婚しないのね」
さらに、誰へともなく連ねた。
「私とは、当然、駄目な訳よ」
会えれば逢いたい。男は妻と離別してから三津子への恋しさが募り、女性への性欲が昂るのを、深酒をすることでごまかしてきた。
おとこにとってセックスは、トイレで用を足すようなもので、だれと行為をしても満足できるが、おんなは感情がなければ満足できない。おんなはおとこのトイレではないが、そんな関係の女性がいても良いのではないか、そう思うことが、離婚したのち、男には幾度となく訪れていた。
もし、玲子が自分を受け入れてくれるのなら、男はそれでもいい、と脳裏で頷いてしまう。やっぱり男も、他のおとこと同じように、おとこのずるさの一面をうかがわせているのだ。
何を思案しているのよ、と言いたげに、男の顔へ自分の顔を近づける玲子が、声を殺して囁いた。
「二次会に参加しないで、信濃町に行きましょうよ」
「まさか、ふたりで」
不意の誘惑に男は、迷うことなく速やかに了解していた。
一方で、欲望が果たせる、また一方で、玲子と結ばれてさえいれば、三津子に再び会うことができるだろう、と男は密かに胸を躍らせていたのだ。
商社勤めで長い出張が多い玲子の旦那は、この日も留守だ。
おんなの性欲を持て余し子供が産めない女と、おとこの性的欲求を自慰行為で解消する離婚した独り者の男。
どちらともなくやってくる酒の酔いで、男女の関係を結ぶには、時間を要さなかった。
この日から、男は玲子と密会を重ねるようになった。
高度経済成長に乗り、証券会社は景気がよく、三津子のことなどすっかり記憶から消失した男は、仕事に追われた。
会社の地位も順調に上がり、溌剌とした生活振りだ。
年齢的衰えに興味も褪せる性的欲求は、まれに逢う玲子によって満足もできたし、相手も男に満ち足りて不平の言葉を漏らさない。とりあえず、遣りたいことがやれる何不自由もない気楽な暮らしになった。
満ち足りた生活をしている。不足や不満はない。だが、全てが足りていると、人というものは不足しているものを探すのだ。それを手に入れることで、より満足度を高め誇れるのが愉しいのだ。いつの間にか身に付いた男の考え方だった。
両親が他界し、兄も亡くした男には、現実の満足に欠けるものがある。未だに手に入らない妻と子供。この先、生きていても、結局はひとりで、孤独になる不安を解消したい。
男は独りでこのまま歳を老いてゆくことが、どういう人生になってゆくのか推し量れず思い悩んだりする。その途端、前途を憂慮し、どう生きればいいのだと戸惑い、それが男の頭の中で渦巻く。
男はこんな渦に追い詰められ、精神の圧迫感に苦悩する夜が続くと、三津子が目に浮かんでしょうがなかった。
彼女と結婚していれば、自分の人生が違っていたのだろう、と思慮したりする。
きっと彼女は、苦労や苦悩もなく生きているのだろう。
そうかも知れない。それならそれでいいのだ。
三津子の生き方を、根拠のない信念で独白的に決め付けると、きまって男は、旦那が出張か否か念を押し、玲子をブラックキングへ誘うようになった。
「正明、三日前も会ったのに。なによ、私でよかったの。実際は三津子じゃないの?」
一度は不服そうな顔をほり出したが、飲みたかったのよと、高級な赤いブラウスの胸元のボタンをはずし、妖艶に肌を見せてくる。
酒量とともに酔いも深まり、朦朧とする玲子は、ぶつくさ胸のうちを吐露しだした。
「私が高熱で動けないのに、飯は、と要求し、俺が仕事に行ったあとに、休めばいいと、主人は怒るのよ」
玲子は主人の愚痴を口に出して言う。
「正明、訊いてよ。あの人には、いたわりも愛情もない。しかも、どこかに女を囲っているのよ」
甲高い声で罵るので、男は周囲に目を届かせた。カウンターだけの狭い店、ほかに客が居なく一安心する。男は片目を瞑り、ママに首を傾けた。
「玲子いがいに女がいる。そんな旦那に、嫉妬しているのか」
「ばか、あんな夫に嫉妬するとでも。嫉妬しているのは、夫でなく、正明が三津子へ思う……、ばか、知っているくせ……」
溜息をついては涙を流す。
玲子は、ときに真剣な表情の顔をしたり、喚き声をだしたり、同じ話を繰りかえしたりしている。
「私、何のために夫に尽くしているの。正明、私ばかみたい。あんな主人とは離婚する」
「辛いだろう」
男は少し時間をつないで、玲子に訊ねた。
「離婚するって、玲子、本気か。よければ、俺と結婚するか」
「いいわよ、本気で考えちゃうわよ、正明」
玲子の顔の筋肉がだらしなく緩み、男の肩に頭を持たせ掛けた。
年月は、情況や都合にかかわらず流れてゆく。社会は、バブル経済も翳り、男の暮らしも精彩を欠くようになる。
時代は昭和から平成へ移って四年が経過した。
そんなある日。急性心筋梗塞で三津子の亭主が死亡した、と玲子は遣り切れないのか、乱れた口調で連絡してきた。
「正明、葬式に参列しましょうよ。これから先、三津子は独りになるのよ。寄りすがる男性が、三津子には、いなくなるのよ。正明、わかる? 女にとってどんなに辛いことか」
必死に告げる玲子自身が、どこか困った破目に陥っているのでは。玲子に何か思惑があるように聴き取れた男は寡黙になる。
それでも、玲子は怯むことなく誘ってきた。
「私も一緒に行くから。三津子を安心させようよ。ね、ね」
俺が葬儀に参列して、どうして三津子が安心できるのか、理解できなかった。ただ、三津子という響きが、彼女と蜜月のときを過ごしたあの頃へ、男をすっかり戻らせていた。
目鼻立ちの整った、和服が似合う、すらっとした体つきの彼女の裸体が、喪服に包まれている容姿を一瞬にして思い描き、男は淫らな情念に浸ってしまう。
忘却がよみがえり、積み重なった思い出に生きる勇気が貰えるのなら、これも人生経験かも知れない。男はそう考え直して、三津子の夫の葬儀に向かっていた。
後編
① 再会
葬儀の節は、と受話器からいきなり聞えた。葬式のときは、応接の持て成しでろくに会話をしていなかった。だから、電話と云えども長いあいだ聞かなかった三津子の熟した艶のある声に、男はすぐ応じられず緊張した。それでも間を置かないよう、
「ああ」と、聴き取りにくい声でかえす。
「明日ね、北口ね」
一方的な言葉も嬌声も耳に残響する。
不意も不意、不自然に切り出す三津子のいざないに躊躇する男は、さそいを断れば、あとに心を残して、悔やんだりするのではと、彼女の若い頃の形振りを浮かべて受話器を耳に当てていた。
学生時分から気が強く、納得がいかないと、胸元で腕を組み、首を斜めに力のある目で睨み、意思を押しとおす、男はそんな三津子が電話越しに見え隠れした。
彼女は伝え知らせたいことを述べると、やっぱり、人の返答を待つことなく切ってしまった。
電話の結末は、明日、小田急江ノ島線中央林間駅の北口で待つことである。
おんなの性格は、歳を重ねても変わらないものなのか。
主人を亡くし一人で家庭を守ってゆくおんなにとって、これからも意志の強さが必要なのかも知れない、と男はひとりでに了承してしまった。
今の自分は、年齢とともに、意地も意思も曲げなければ生きていけないと自問自答して暮らしている。口惜しさのあまり、気晴らしに酒を飲んではまた、後悔を増し生きているのだ。だから、男は三津子のりんとした態度が羨ましく、自分の至らなさを痛感してしまった。
明くる日の日曜。男は小田急線下北沢駅から乗車した。
あえて男はドアーの横に立ち、移る景色を見るわけでもなく漠然と揺られていた。
野辺送りの日、ほとんど言葉をかわさなかった三津子が、俺に会いたがるのは気味が悪く、あれやこれやと車中で思量したが、どうしても男には理由が見つからない。
中央林間駅に降り立つ。ながい歳月が経過したと、男は実感した。
高層マンションが幾棟か建ち商店街も望める。駅に佇む男の目前を人人が、上り階段を通り過ぎ、先の東急田園都市線・南口と表示された、下り階段へ川となって流れ落ちた。男は流れが切れる後尾の一人に、
「北口は」
「この上り階段を」
手を指す先に男は目を泳がせる。跨線橋が続き対面のホームに階段が下っていた。その先に改札口を認める。
男は北口改札を出た。まのあたりにハンバーガー店と駐輪場、左に煙草屋が見え、軒先に灰皿が置いてある。
男は腕時計に目をやり、以前の時もそうであったように、どうせ待たされるのだと煙草を吸うことにした。
何本目の煙草だろう。駅舎に並行した通りの雑踏を、喪に服してか、黒っぽいツーピースを着込んでゆるい歩幅で歩くおんなが、彼女だと煙草を揉み消す。
男に辿り着いた三津子は、呼吸を整えながら一礼をした。男も会釈をかえす。
「ごめんなさい、待った。それに、その折は、いろいろありがとう」
下げた顔の首からブラウスの中へ隠れる金のネックレスに、男は視線を集める。
ひょっとすると、交際して一年目の十月十日、学生の身分で結婚を約束し、プレゼントを贈ったあのペンダントでは。
まさか、今どきまで持っているなんて、しかもこんな日に付けて来るわけがない。
しかし、男は気になる。鎖の先端がわかれば明らかになると彼女に近寄る。
すると若き日の匂いより、女性を仄めかす魅力的で心を惑わす香水がほんのり香り、彼女と初めて口づけをかわした日の追憶が湧き出る。
忘れ難いものに触れた。三津子へ女として惹き付けられる。
男は、胸の動悸が乱れるのを生き生きと受け止めてしまう。
青春の頃の懐かしい苦しみや悩みに遭遇するとは、まだ三津子が恋しいのか。
いや、翻弄されてはいけない。
男は、自分が身構えていると意識する。
でも、二十三年は経つ過去の恋人と、いま会っている。その人の芳香が喉の奥まで流れつき、彼女と過ごした昔の時間を想起してしまう。
その彼女は、一ヵ月前に夫の七七日を済ませた、いわば未亡人だ。
だが、今さらどうなるものでもない。
こんな感情を行き来させながら、男は何から切り出そうか私心が騒いだ。
「榎田三津子に戻ったのか」
「ばかじゃない。夫を亡くしただけで戻るわけ、ないでしょう」
頭髪はあの頃より薄く、長さは当時とかわらず耳元でカールしている。いまだに均整のとれた体だが、さすがに、ややこけた頬で愛嬌笑いを作っていた。
若やいだ表情があの時分の彼女と同じだ。男は自分までも若返ったつもりで、簡単に時間は取りかえせるのだと、ほっとするものを感じた。
目尻を下げ小皺を集め、まだ笑顔でいる彼女を見ていると、言葉が繋げなかった。
いつまでも無言でいるわけにはいかない。
「お茶でも」
「いいえ。北口と反対へ、着いて来て」
男は、ちょっと訝ったが、導かれるまま彼女が来た道を添った。
両側に雑居ビルが建ち、商店街を形作る。突き当たりの五階建てオフィスビルを、彼女は左側の急な坂道を選んだ。それは小田急線ホームに沿って下って行く。小田急の改札口がある通路と結んだ東急の駅ビルへ足を進めた。
溝の口駅が終着だった東急線が昭和五十九年に、東急田園都市線として中央林間まで延びている。中央林間も路線が延びるに釣られ、その沿線の発展した街に変貌してきた。
三津子の新婚生活は、東急大井町線の自由が丘の新居から始まった。そのころより実家への連絡がかなり楽になったのだろう、と男は勝手に推測しては、滑稽になり含み笑いをする。
東急駅ビルの前にロータリーがあり、端の横断歩道を渡ると東急ストアに着く。
正面入口の左側、植込みを囲んだベンチに座るよう男に指示し、彼女も腰を下ろした。
男は横目づかいで周囲を見て、人影がなかったからだろうと合点した。ただ彼女の張り詰めた気配は、何かが起こりそうな空気を醸し出している。
一息入れた彼女は、鼻をうごめかし誇らしげに質問してきた。
「玲子とは、よく会っているの」
男の頭の中で、無理やり葬儀へ誘動した玲子の顔が反射的に再現された。
「高校の同窓会ぐらいかな」
突っぱねるように言い終える。
「そう。あなた、玲子と同じ高校だったわね」
猜疑の目で男を見て、かぶりを振り、カールする右側の髪の毛を手で触れ、沈着で慌てず構えている。
そんな彼女の表情が、唐突に厳しくなり、問いを投げる声が男の胸に響いた。
「あなた。玲子と付き合っているでしょう」
男は受けることができず、
「まさか」
こんな会話をするため、何十年振りに、理由も言わないで気儘勝手にさそったのか、よもや、そんなはずがない。
「そう……。もしかして、主人の葬式の連絡も玲子から」
疑問を解くような質し方が、男の鼓膜に届く。
「ああ」
弱い声で返事はしたが、何を解こうとしているのだ、男は危惧を抱き、首を竦めた。
「そう。そうだったのね」
男はどぎまぎして、彼女を一瞥した。
何が言いたいのだろう。
そのうちに話すだろう。
わずかな沈黙の後、男はおもむろに改めて視線を彼女に向ける。
目尻を下げ、今では細くなった目を送ってきたが、何も言わなかった。
二人の前を行きかう人人を見続けている彼女の中で、いつ頃の、どんな人生の景色が走り抜けているのだろう。男は何気なく探ってみたくなるが、かいもく見当もつかず、どうでもいいと諦めてしまう。
やがて、彼女は通り過ぎる人を観察して、抱いた疑念が消えたのか、あるがままでぼそぼそと訊ねてきた。
「私と別れて以来、今日が、初めての中央林間?」
取るに足りないことを聴く彼女だ。これは年齢の所為か、と男はとらえた。
近ごろ自分も些細なことに引っ掛る。たいしたことではないのだが、そのことに警戒してびくびくしたりしつこく悩んだり、挙句の果て先の人生に焦りを覚え恐がったりする自身が、ふと通り過ぎた。
「そうだが。それにしても、もう、二十年以上経つか」
往時を追懐するように辺りを見回すが、目に入る風景にかつてのものがなく、ほんの少し淋しい心持ちがした。
「ところで、あの立派な門構えの、広い家はどうなっている」
「兄夫婦が、リフォームしながら母親と住んでいるわ。父親の法事とか、それに、私の子・子供の……」
言いかけて、一瞬、秘して口に出して言わない素振りをしたが、改めて姿勢を正し、ものを言いかける。
「私の子供たち、が、相談とか、英語を兄に教わるため、とか、けっこう私、実家には来ていたのよ」
どこか、言いづらそうに話す。
三津子の兄は外交官で、交際範囲が広いし、経験も豊富だろう。それに加えて英語に強い。相談や教えを受けるには、最適な人物だろう。男は、そんなこんな憶測をしていた。
彼女は、私の子供たち、を真剣に育てているのだ。そう受け入れた男の脳裏で、妊娠したと打ち明けられた夜が思い起こされ、旧時の自分が慙愧に耐えられなくなる。
どうして俺たちの子供は育てられなかったのだ。俺たちの子供をなぜ中絶したのだ。あのとき、二人で罪を背負っていきましょう、とお前は断言した。なのに、俺との結婚も拒否した。男は当時起こったことがつぎつぎと回想された。
男は結婚に反対と嘲る親の姿や、実家で三津子と燃え尽きるまで触れ合った最後の夜の営みが、眼球の奥底から現れた。
男は慌てて目を擦り目蓋を開け、音を立てないよう溜息を吐き、話しかけた。
「そうか。東急線が延びて、実家が近くなり、子供たちも喜んだのか」
「……そう、そう、ね」
三津子の心の据わりがよくない。
そんな話題はどうでもよい。もっと大切な話があるはずよ。三津子は、私の考え気持ちがわからないの、と目線を男に投げ掛けた。
が、何ら反応を示さない男に断念し、すぐに俯いて、しばらく黙した。
男は、いまの心情を強い意志で告げ知らせたい。
再び確かめるように彼女へ視線を向けたが、うなじを垂れている。
何か思い立ったのか、垂れた顔を男へ遣り、たんたんと三津子は質問した。
「それはそうと、あなたは、まだ再婚しないの」
「まさか」
男は都合が悪くなるときの言い逃れを放した。
彼女は、今でも男が変わっていないと薄い唇を舌で舐め、幾つになっても直らないものなのね、と一人で首肯した。
男は、先のことなど、ほっといて欲しい。それに、玲子との再婚を真剣に模索しだしているのだと、言いたかったが、押し殺し唾を飲み込んだ。
「打ち明けて言うと、玲子ね。ご亭主いがいの人と、ずいぶん長いあいだ、お付き合いをしているようよ」
玲子との関係を知っているのか。これはまずい、という気掛かりな風が通過した。
「まぁ、まさか」
その風を穏やかには受けられず、とぼけた調子で返答したが、いつまでも再会の感動を高揚させてはいられない。
三津子は何を見定めたいのだ。男の脳味噌が素早く回転しだした。
「最近、ご主人に疑われて、玲子は焦っているみたいの。離婚されるのは嫌、主人に見つかる前になんとかしなければ、と言っていたの」
男は玲子から、そんな話を聴いたことがないと、懐疑心を漂わせた顔をしかめた。
葬儀の帰り道、玲子はどこか泊まりましょうと積極的だった。こんなときにどうして、非常識ではないのかと男は勘繰り、ご亭主には、と訊ねた。親友のために泊まってあげなさい、と返してきたと言う。この夜だ。
――三津子が、独りになって寂しがる。正明、私のことはどうでもいいのよ。三津子を慰めてほしいの。そうね、そう、またお付き合いをしてあげて。いい機会よ。そうよ、再婚もありよ。
含蓄の多い言い草で、玲子が話してきた。
三津子のことには触れるが、玲子自身の気持ちは話さない。それに、何といっても、
――俺と別れたい。とは、一言も言わなかった。
玲子はこのとき何が言いたかったのだ。三津子の話と齟齬を来たし筋道が一貫しない。どうしたいのだ。一顧しては案の定、どうしていいのか分からず、心がざわつき身の震えに耐える男へ、三津子は小言をならべるように続けて喋りだす。
「玲子のご主人、大層な財産があるの。玲子は、絶対に財産を離したくない、と、いつも口癖のように言っているわ」
この話題が、話したかったことなのか。男の晴れない気持ちが淀みだした。
おまえだって、そうじやないのか。結婚を両親に申し込んだ日のことだ。
家柄の良い、年上で、自宅を持ち安定収入が保障された一流企業の人。娘を大学に行かせたのは、お茶や生け花、料理と同等の花嫁道具の一つなのよ、と母親に嘲笑いされた。
結婚を急ぐおまえに、営業成績を上げ、給料や賞与を増やし段取りをしているから、もう少し待ってくれと告げたのに、にやりとして、
「あなたを待っていたなら、お婆ちゃんになってしまう。お嫁に行き後れる」
そう、問わず語りをした。
思い通りの結婚ができたのではないのか。
駅から斎場が遠いと、自由が丘の自宅で執り行われた葬儀に参列して、彼女のそれまでの生活を垣間見た証が、男にはある。
「私の結婚式にも参列していないあなたに、玲子はなぜ、主人の葬式の連絡をしたのか、不可解なの」
男は、彼女が何を言わんとしているのか理解できず、返事に窮していた。
「四十九日に、玲子は私の家に泊まったの。そのとき何が言いたいのか、喪中でも葬式の礼を兼ね、正明に会ってみればと、粘っこく勧めたの」
だから、三津子は俺と、今日あったのか。
玲子は、亭主にばれる前に、俺と別れたいのか。なるほど、そのために、三津子との関係を再燃させる企みを、玲子なら思いつく。
男は、この企みに乗っていいのか悪いのか困惑しだした。
もしかすると、三津子も俺も、すでに玲子のくわだてにはまっているのかもしれない。
いつの日か、あんな夫に嫉妬するとでも、嫉妬するのはあなたと三津子に、と言った玲子の言葉は、俺と別れたくはないという、まさに固い決意の本心だったはずだ。それなのに、玲子は贅沢な生き方を、財産を選ぶというのか。
いや待て、そんなはずはない。俺のため、玲子は俺たちの関係が三津子に露顕しないように話を作っているのだとしたら。
男は脳裏の中で、あれこれ繰り返した。
何にも増して、玲子に、並並ならぬ決意を迫られている。男は三津子の意向を確かめたいと願いだした。
ひょっとすると玲子の事情を飲み込んでいる三津子は、玲子との仲を絶ち、夫を亡くしたこの時機、俺とよりを戻したいのか。
――これは、自分が望んでいたことだ。今日、三津子が俺を呼び出したのはこのために他ならないとしたら。
恣意的に自分勝手な判断を膨らませる。
男は都合好すぎると気が咎めだし、動揺する心情を見極めるため足を組み直し、疑義を明らかにしなければと、男は彼女をこわごわ見た。
三津子は髪をかきあげ、何遍もまばたき、街の動きを眺めている。男は、やはりそんなはずがないと醒め、ひとまず冷静を保った。
男は、玲子との関係を告白しようと覚悟をきめ、三津子へ体を改め直したときだ。
「私たちのあいだに、子供ができたことを知っているのは、玲子だけだよね」
事実そうだ。男は首を縦に振った。
「そんな玲子と、どうして正明は付き合っているの。まったく無責任よね」
睨み付ける面差しを回し、三津子は、唇を歪めて男を引き付ける。
「私とは結ばれなかったし、今のあなたは独身だから自由でしょうが、私と玲子の仲を知っていて、どうして? しかも、正明の子を身籠り、若い学生が、女の羞恥心を産婦人科で曝け出したことも知っている玲子と、 関係しているなんて、どういうことなのよ」
男は黙って聞いていた。
「その上、玲子に懐妊した子が、男の子それとも女の子と、正明は尋ねたはね。その無神経さが私は嫌いよ」
三津子は、いっぺん男から目を背け無関心をよそおう。そのうちに、だんだんと眉間に皺を寄せ、いっきに振り返ると射抜くような目で男を見た。
「私が妊娠したと報告したとき、学校を辞め、どんなに苦しくても必死に働き子供を育てるから、三津子、二人で頑張ろう、と。どうして、言えなかったの? そう言って励まして、慰めていてくれていたのなら……」
いきなりに彼女は泣いてしまう。男は神妙な心持ちになり空を見上げた。
彼女へ視線を投げ、男は強い意志をもって強い口調をもって発した。
「三津子、今からやり直そう。いい機会かもしれない」
「それが、無責任なのよ。やり直せるものなら、私だってやり直したいわ」
「できる。間違いなくできる」
「できない」
三津子は一言で言明した。そして納得させるかのように説きだした。
「今からでは、やり直すことにならないわ。それは、あなた。それは始まりよ。学生に戻って、そこからやり直せるのなら、これこそが、本当に意義があるのよ」
なるほど、男は頷きたくなった。三津子はすぐ続けて語りかけた。
「無理でしょう。今から、確かめあっても意味なんかないわ。それぞれの運命は、すでに決しているのよ、正明」
三津子はバックに手を載せ、前屈みの姿勢を取った。
彼女の襟元と体の隙間から、金の鎖にぶら下がるシルバーの三日月の先端に、淡いピンクの星が乗ったペンダントが、ちらっと見えた。
それは、確実に俺がプレゼントした、あの日のペンダントに違いない。
どうしてこんな日に……。
男はペンダントを渡した日の三津子の姿が面影に立った。
「ありがとう。このペンダントが、愛の契りね。結婚する約束ね」
そう言って、その日は喜んでいたのに。
考えてみるに、のちのデイトで、一・二回は首に付けていたが、その後、ほとんど身に装着していた記憶がない。そして、そのまま結婚してしまった。
三津子は、その頃に思うものと、過去を偲ぶものとは……、ペンダントが、心の中で住む場所が違うと云いたいのか。
男は彼女を嫌悪してしまいそうになるが、軽蔑されたくもない。
男の胸のうちは痛み、辛苦に目眩がしそうだ。しばらくのあいだ男は、心に浮かぶ想いを感じていた。
おんなは、ここぞと言うときに本音を明かさない。おとこは、真が知りたくても、年齢という見栄が邪魔をして、誘引させる言葉が吐けない。歳を取るとともに、おとこの勇気は小さくなり、おんなの本心も見透かせない。おとこは、そこが辛い。
三津子は、目と唇をにっこりさせ、朗らかな口ぶりで、
「あなた、私と会ったこと、玲子には秘密にしましょう」
優しく、しかもゆっくり伝えた。
男には、やっと、みずから導き出した決意の文字が、喉仏の近くにある。
――玲子のことは自分で解決する。だから三津子……もう一度。と、言う言葉を彼女にかけたかったが、声に出したのは、ただ、
「うん」だけだった。
男と三津子の体に添うように、晩秋の冷ややかな空気の流れが動き出した。
男の中の靄が消えるまでの風ではないが、肌に心地よく吹いてきた。
彼女は心の靄が薄れたのか、尖った口を平らに戻し、穏やかに話しだす。
「私ね、今日あなたに会ったのは、心のエピタフを伝えたかったの」
「エピタフ、つまり墓碑銘」
「そうね」
と、言いながらベンチから立ち上がった彼女は、軽く伸びをして、再び腰を下ろした。
「ねぇ正明、お医者さんが、おっしゃるのには、私たちの子供はね。男の子だったの」
「男、だったのか」
「そうよ。正三。昭和四十一年、八月八日。享年〇歳。これが、あなたと私が忘れてはい
けないエピタフよ。心に刻んでおかなければならないの」
「正三とは? そうか……、正明と三津子の頭文字を。そうか、正三と名付けたのだ」
「そうよ。このことは絶対に忘れないで」
三津子は目を閉じ、祈りを捧げているのか、心中の穏やかな感情や情緒が顔にあらわれている。男は胸中に痞(つか)えていたものが流れ落ち、爽やかな気分で心気が晴れた。
「ところで、あなた、この場所、覚えている」
場所、しかも思い出。田舎が街になったのに。
明るく笑って男の顔を凝視していた彼女の目に、いつしか涙が滲み、顎を上に向けていた。
「私の、初めての口づけ、正明が最初の人、そして私の子供」
この言葉に男の反応は、すぐについていけず、いくらか遅れた。
いつか見た、いつか聞いた、涙声。記憶の底に残っていたものがよみがえり、男は自分の左の頬から唇へかけ、右手を滑らし暮れゆく空へ目を細めた。
彼女の自宅と反対の暗い道へ踏切を渡り、広場と道の境界に立つ、あの一本松が、霞む幻影となり、男の眼の前にあらわれた。男は半身を彼女へ遣り、呟くように、
「この場所が、あの一本松があった所なのか」
「そう、ここがそうなの。そこに一本松と標した碑が」
前面の植え込みの切れ目と歩道の境目に、上部が斜めに切られた一メートル程のコンクリート製の碑へ、彼女は右手人差指を指す。
「街は発展してゆくけど、思い出は消え去るものではない。まして二人は、この碑があるから、いつまでもここに残れるの」
三津子は、懐かしい一本松に心を奪われたのか、視線を凍り付かせ、そして続けた。
「人はね、歳を取ると、遠い昔が近くになるのよ」
光り輝いたあのころの面影が男の脳裏で動き出した。それは自分の思ったとおりにいかなかった光景だ。
おとこは、この歳になれば、うまくいかないのが人生だと、経験している。
おんなは、苦悩を思い出にとしまい込み、ときにそれを取り出しては反芻し、思い慕う感情で、潤む涙を流すのだ。
彼女が拭う潤む涙を、男は、はっきり今とらえた。
「初めての体験の思い出は、ときに底力を与えてくれものよ」
彼女は、愛に満ちた綻んだ視線を男へやった。
「そうかも知れないね」
「楽しい思い出より、辛かった思い出だけが、今になると懐かしいの」
男は頷きながら同意した。三津子は右手を自分の胸に当てて、語りだした。
「正明、この一本松の碑を見て。そして自分の胸裏で描き刻んだエピタフへ、正三への罪の許しを、過ちに謝る心を、手向けるの。だから私たちのエピタフと、この一本松の碑とは連関したの。大きな意味を持つの。これからは、最低でも年に一回この碑に会いに来る義務が生まれたのよ」
三津子は、来るたび仕舞い込んだ思い出を引き出せと言うのか。いや、一年に一度はこの碑の前に来て、看過できない過ちに、正三に許しを請えと言うのだ。
碑を座視するに忍びないことはよくわかるが、いつまでも覚えていなければいけないのだろうか。男は疑念を抱いてしまう。三津子を刮目して、何を続けて喋るのか待った。
しかし彼女は立ち上がり、帰りましょう、と前の三叉路真ん中の路が、自分のきまった道なのだ、と言わんばかりにひとりで歩き出した。
小田急線の踏切に差し掛かると、北口改札を指差した。
「私たちが乗り降りした、あれが昔の改札なの」
駐輪場に近づく。
この辺りが駅前広場で夜祭に金魚すくいをしたところ、と三津子は男の腕に力をこめてしがみついてきた。
駅舎の端で高校生の男女が、抱き合って愛を語らっている。
腕組みをした三津子が、ちょこっ、と愁いを含んだ目の表情を男へ向けた。男も気恥ずかしいが、二人は戸惑いながら微笑ましく見詰めあい、高校生の傍を通り過ごした。
改札の前に着く。頬を膨らませ唇を噛み、彼女は男を正視した。
「今日は、私が正明さんを見送ります。エピタフを忘れないでね。また、会えたらいいね」
昔のように手を握ってきた。
あの頃なら、一本松の陰で抱きしめていたのだろう。いまの男にはそんな勇気がない。
三津子の手は冷たく痩せ、あの時代の張りがあるふっくらした感覚は、もうない。その手に、どんな人生が待っているのか推知できないが、偽りなく歳を取るのだと、しんみり伝わってくる。ためらいながらも汗ばむ手を、いつまでも男は離せなかった。
② ペンダント
三津子と中央林間で再会して一年近くが過ぎた。
四十八歳の誕生日を迎えた男には、月日の経つのがゆるやかな気がしていた。この感覚を忘れ去るために、仕事に張りを見出し過ごすしか、すべき方法が男にはなかった。
いつの間にか玲子への感情もどこかへ遠退いてしまう。
疲れを癒すため、ときとして一人で飲みに酒場へ出向くが、そこでの孤独感が耐えられなくなり、ひとりでに自宅で、美空ひばりの歌など大声で唄いながら、飲む酒のほうが愉しいと思えるようになっている。
そんな暮らしのある日、三津子の母親から一本の電話が掛かってきた。
「勝手な言い分でしょうが、娘のお弔いに来てやってください。お願いします」
母親の嘆願に、男は体が震えだす自分を認めていた。
三津子がくも膜下出血で他界したのだ。
自宅にきて最後のお別れを、母親みずから、私が望んでいるのです、と告げられた。
小野寺家へ嫁いだはずの三津子が、どうして実家の榎田で葬儀を執り行うのか、男は奇異な感じを受けたが、そんなことはいま気にすることでもない。男はそう結論づけて、ひたすら悲しい思いが、なぜか込み上げる中、急いで中央林間へ赴いた。
あいかわらず趣のある門。その入口には葬式の幕が張られ、通夜や告別式の告知が書き付けられた立て札が設けられている。
案内された仏間で、三津子は白い敷布団に白い掛け布団を掛け、顔には白い布を被せられ、胸辺りに鳳凰の刺繍の入った短刀の包みが置かれている。
「三津子」
ひっそり震える声で呼んでも、俺の気配を感じても起き上がらない。彼女が呼吸して吐く息さえも、顔の白い布を動かすことなく、彼女は横たわっている。
頭の先に三津子の位牌と燻る線香の台座があり、それらを仏壇が厳格で静粛に吸収していく。
この光景に驚き、顔を上げた男は、対面で正座する三津子の母親に問いかけた。
「彼女はいつ」
「昨日の午後、突然、頭痛を訴えると、まもなく意識障害が進行しました」
母親は咽び言葉が途切れた。
男は、音もなく三津子の顔の布を取り外し、母親の話を迎えようと、しばらく彼女を黙視していた。
「病院に着いたときには、すでに呼吸が止まっていました。先ほど病院から自宅へ、葬儀店の寝台車で連れ戻ってきました。まずは恩田さんへお願いの連絡をと、病院の霊安室の公衆電話から掛けました」
母親は、途切れ途切れにやっと語り、ついに号泣してしまう。男は三津子へ捧げていた視線を金箔の大きな立派な仏壇へ流し遣った。
仏壇の二段目に、院号つきの位牌が三つ並び、その横に小さい正三童子と記された位牌に、男の目が止まった。
一瞬、男は怯んであんぐり口を開けた。
徐徐に口を塞ぐと、男は小さい位牌から、始めもなく終りもない永い眠りについた彼女へ、視線を移した。泣くまいと我慢していた男の目から、溢れ出る涙を堪えることができず、とうとうしずくを落としてしまった。
「恩田さん、ごめんなさい。許してください」
三津子の母親の愁嘆な声が唇から漏れた。母親の意図が見抜けず、男は体を前面にあずけてしまった。
「娘の人生は、決して幸せだったとは言えません。不幸の連続だったと思います。そうさせたのは、私だったかも……しれません。いえ、私です」
しげく反省している表情を顕に、瞬間口籠った母親。男には、想像もしていない話の展開に、先の話題が待たれる。
「娘が、あなたの子を孕(はら)んだとき、娘の父親は、学生で金もない。近くにアパートでも建ててやり、そこに住みつつ家賃収入で生活をさせればよい。と、言っていました。でも、三津子が、そんなことを受け入れる彼ではない。夢見たいなことしか考えない人だから、大人の志向がもてるまでは……」
唖然たる面持ちになる男。気落ちした状態の母親は、思い直したのか、幾らか気を取り戻し繋ぎ始めた。
「娘は父の意見を聞き入れず、ご存知のように中絶をしてしまいました。そして恩田さんが、正式に結婚を申し込むのを待っていたのです。しかし、卒業しても明解な答えがかえってこなかったわ」
「すいません」
「そうこうするうちに娘が、私の子供の位牌を自宅の仏壇に置かせて、命日には拝みたいの、と言い出したのです」
だからなのか、男は気付いた。
再会した日、間違いなく彼女は、子供のことになると、差し障る物言いをした。あのとき、自分の推測が、あまりにも貧弱で、愚かで恥ずかしい心持が込み上げてきた。
三津子との色んな事柄が、乱雑に蠢きだし、頭の中がごちゃごちゃしだす。とりあえず自若を保たないとこの場には居られない。そんな気分になる男は、口に溜まる唾液を呑み込んだ。
「そう、あれは、娘が就職して半年ぐらい過ぎて、あなたの子の命日よ。明日にも恩田さんを結婚の申し込みに連れてくるから、はっきりした態度を取らない彼に、活を入れて、と涙声でそう言ったの」
母親は、気詰まりしたのかしょんぼりと、一度は俯いた。それから後悔の念にかられた顔を男へ向き直し、絶えないように急いで言葉を発した。
「私は、娘を、三津子の言葉を勘違いしました。活を入れて、と言ったのは、しつこく付きまとわないで、別れたいから、はっきり断って、と信じてしまい……」
母は面目を失ったかのように目を瞑り、手で口を押さえ、しばし無言になった。男にしてみると、いくらなんでも親子で葛藤があったとはまったく意外であった。
「ごめんなさい。もっと娘の胸のうちを確かめてやれば良かったのですが、本当に悪い母親でした」
母親は、深深と頭を下げ、ゆっくりと擡(もた)げた。
「女性の幸せは、資産家の人と結婚して子供を産むこと。ごめんなさい。それに、血縁縁者の手前、家柄だけでお見合いをさせ、娘を無理矢理に小野寺へ……。許してください。取りかえしが付かないことを私……」
言葉が途切れた。男は平然と構えている恰好をした。でも、落着けなかった。
「それで。それから彼女は、どうなりました」
男は、母親へ首を伸ばすようにして問うていた。
「実は、話していいのかしら」
「うん、うん……、うん」
男は何度も首を振る。母親は覚悟を決めたのか、しっかりと首を縦に一つ振ってから喋りだした。
「結婚して、まもなく三津子が、小野寺の子は産みたくないと、密かに私に言い続けていたのは知っていましたが、私が知らぬまに、三津子は、産婦人科で子宮内に避妊具を挿入してもらい、妊娠できない体にしていたのです」
母親は一度、目をきつく閉じ、さらにゆっくり語りだした。
「だから、小野寺との子供はできないままでした。このことが原因かどうかはわかりませんが、夫婦仲が悪辣な関係になり、娘も体調をたびたび崩し、肉体も精神も疲弊させていったのです。けっして幸せな結婚生活ではなかったと思います」
ここでいったん口を噤んで、やがて口を開いて続けた。
「それに三津子、実家に来るたび、私を責めては、恩田さんとのことを思い出し、私によく喋っていました。娘は、あなたのことが忘れられなかったのでしょう」
母親は、再びいっぱいになったのか、抑えても溢れ出る涙を、自然に流していた。
律儀に近い三津子の頑固さは、本当に義理堅い実直な人柄を証明していたのだ。一途に俺を愛し、そして責任を果たそうとした。時代が昭和から平成へ移っても、ひたすら思い込む昭和の女でいたかったのだろう。
こんな思念を巡らす男は、学生時代から今日までの、自身の心を覗き込みたくなり、おのずから目を伏せてしまった。
沈黙を破ったのは、母親だった。
「それに恩田さん。三津子は、なにも死ななくてもよかったの。悔しいわ。あなたとやり直せたのに」
母親は、白いハンカチで目頭をぬぐって、一呼吸をするとゆとりを取り戻した。
「小野寺が倒れる前日までには、すでに離婚が成立して届けも終っていました」
すっかり聞き入る男へ、母親は、一度目をやった。
「でもね、昨日の今日でしょう。小野寺家の世間体もあるでしょう。だから、一連の葬儀の儀式だけは三津子が、一年間だけ取り仕切るようになったのよ。どこか、へんでしょう」
母親は、初めて笑いを、いや微苦笑を顔に浮かべた。
男は、三津子の暮らしに醜いひび割れがあったとは、あまりにもとっぴ過ぎて、考えが及ぶ範囲を超えていると、思わず額を縮めて皺を寄せた。
玲子はこれまでの三津子の生き方を認識していたはずだ。なのに、夫の浮気を理由に、情を俺に求めていたのか。加えて三津子に子供がいるとまで嘘を言った。男は玲子の言動を妄信していたことに気後れし、しかも 苛立ちさえ覚えた。
三津子においても、子供がいないことを隠していた。気丈な彼女がここまで隠し通したのは、玲子との密談を守るためなのか。
何事に対して、咎める気持ちなど持っても、その時期は終っているのだ。過ぎ去ったことなのだ。いまさら遅いが、三津子の胸のうちが明白になっただけでも、男の体に安らぎが広がり、眠る彼女に両手を合わせた。
――三津子、ありがとう、と、男は他人(ひと)に聴こえない小声で叫んだ。
このときだ。
「奈津子さん、納棺にお見えよ」
仏間の襖が開いた。
男は、母親が奈津子という名前だと初めて知り、榎田家が伝統的に名前の一文字を受け継ぐのだと、悟った気がした。
「恩田さん、納棺に、ぜひ参加してください。娘・三津子も喜ぶと思います。このためにご無理をお願いしたのですから」
「僕がお手伝いしてもよいのなら、よろこんで」
「ぜひ、ぜい。そうしてやってください」
母親が、ほっと安堵したように男は思えた。
葬儀屋の指示にしたがい、三津子は棺に納められた。母親の奈津子が、金の鎖にぶら下がるシルバーの三日月の先端に淡いピンクの星が乗ったペンダントを、棺に入れようとした。
「貴金属は、納棺しないでください」
葬儀担当の一人が、冷淡に言い渡した。奈津子は言い返した。
「これは、娘の宝物です。それでも駄目ですか」
「はい。火葬場の規則です」
冷ややかに払い除けた。それを棺から取り出すと、棺の蓋に置いた。
「告別式が終るまで、ここにしたためておきましょう」
男は、だれに貰った物なのか、どういう意味の物なのか、さらにどうして、母親が娘のペンダントの在り処を知っているのか、訊ねたくなった。
しかし、そんなことを母親が知っていようとなかろうと、この現実、棺の上に置かれたペンダントを通し、三津子の気持ちが俺を見守っている、力強く支えている。このことのほうが俺には嬉しいことだ。三津子の身を、運命を、俺に委ねていてくれたのだ。男はそう感じ始めていた。
葬儀担当の振る舞いを眺めていた母親が、忌忌しい表情を顔一面に漂わせ、流し目に男を見た。男は母親から、思わず目を逸らしてしまった。
納棺を終え、通夜が始まるまでのひとときを、男は中央林間駅へ足を運んだ。
一本松の碑の前に立つ。
胸が絞め付けられ、揺らぐことすらできない。これまでの生き様へ、三津子の怒りが、外堀から埋めて攻めてくる。もがき許しを願うが、戒めを守れと求めてくる。男は三津子に幾度も頭をさげ、過去のことはひるがえるものではないと涙ぐんで詫び説得をする。
「何をしているのよ。そんなところで、苦しそうに」
玲子だった。
「改札をでたところで、ちらっと恩田君がみえたの。付いてきたらさ、変な姿態で立っているのだもの。驚いたわよ」
錯覚の中で悶えていたのか。男は何食わぬ顔をつくろい、挨拶の積りで訊ねた。
「どうしてる」
「相変わらずよ。夫には大きな変化がない。でも、私って少し早いのかな、閉経すると、別段、浮気されても癪にさわらないのよ。むしろ私にとって、強気に言える機会が増えたって感じかな」
男は玲子の目を追わずに、耳に流して聞いていた。玲子も男を見ることもなく、何かを探しながら喋っていた。
「この辺なの? 三津子との一本松の碑とやら。どこ?」
男は、むかっとするが、虫唾を静めた。
「あれだ」
コンクリート製の碑を指した。それを見た玲子は、男をちらと見て冷笑を浮かべた。
「ねぇ、通夜に行くのでしょう。一緒しましょうよ」
「ああ」
翌日、告別式と野辺送りも三津子を偲ぶ一七日の食事も済ませ、彼女の母や兄に丁寧に挨拶をして、男は中央林間駅へ足早に向かった。
どうしても、すぐに電車に乗る気力が挫(くじ)け、駐輪場の前にあるコンビニの角で、同伴していた玲子に身じろぎし、口を耳元へ近づけた。
「先に帰ってくれないか。ちっと、立ち寄りたい場所がある」
「そう。なるほど、いいわよ。じゃ、また、いつか」
「ああ。それじゃ」
玲子は男の行き先を察知している。気遣っているようにも男にはとれた。
夕暮れ時で、行き交う人は皆せわしく歩いている。踏切を渡り、男は、緩やかな足取りで一本松の碑へ目指した。
三津子と再会した日と同じベンチにおちついた男は、煙草を口に銜え、煙を肺の奥深くへ吸い込み、息と一緒に吐き出した。
思えば、彼女は極めて頭脳明晰で、恐ろしく強い意志を持っていた。
軽く煙草を吹かした男は、そんな三津子が側に居るように思えてきた。
正三という子のため、おんなを犠牲にしてまで、信実な人生を貫こうとしたのか。
いつも冷静で落ち着き払った力強い大きな目の中に、ものに憑かれる光が宿っているように、男には見えていた。
俺と結婚をしていれば、三津子には正しい人生があったと問うのか。殺した子のため、男女の愛をまっとうするべきだ、そう言いたかったのか。自分で背負った心の痛みを、沈めることなくいつまでも引き摺って生きろと云うのか。
男には多くの疑問が残る。
懐疑の念を抱いても、解決できない時間になってしまった今、諦めも必要だ。
そりゃ、俺を慕い、俺に添う心、楽しみを共に楽しんでくれる、悲しみを共に悲しんでくれる伴侶・三津子がいれば、どれほど幸せか、慰められるか計り知れない。
でも三津子。人間は感情の動物だ。だから遠くて掴めない愛より、近くの思いやりを望んでしまう。忘れられない人がいても、別の人と心が通じ合えば共に歩める。俺はこうして生きてしまった。三津子の胸中がわからないまま、俺は逆らって生きていたのだ。
今日、母親から聞かされた、三津子の愛情に、俺は感謝している。
目の前の一本松の碑を眺めていると、二十数年、離れて生きていたのに、三津子の人生と自分の生き方を読み解いては、悩んだり納得したり、考えたり、まるで三津子と会話をしているようだ。
この感情は、彼女の墓石に手を合わせても生じてこないだろう。
彼女が言った、忘れてはいけない心のエピタフ。それは男にとって、すでに一本松の碑その物が、正三と三津子のエピタフになっているからだ。
だから、この近辺に越してくれば、いつも三津子と共に生きてゆける。
どのみち、この先どこで住んで、どう生きようとも、どうなろうとも、俺は俺の一生だし、お陀仏するまでが俺の人生なのだ。三津子と正三に、この碑で逢えれば、老いてゆくことなど、なんら恐くない。
男は、中央林間の街に引っ越してくると、不退転の決意をした。
そうだ、これで正三と三津子の御霊を、生きているあいだは守ることができる。俺のこれまでは、自分の機知が作り出した偶然の幸運だったのだ。川は必ず海に辿り着く。この先、川のながれのように、俺も死へ注がれてゆく。心の中で少し孤独の不安が醸成されるが、もう、俺ひとりで生きているのではないのだ。三津子も正三も居る。ここから、新たに残りの人生を出発させるのだ。
物事に動じない、ゆとりの心が持てた男は、暗くなった空を見上げた。
三日月が照り、その傍で一つの星が輝いていた。その星がピンクの光を煌めかせているように、男には見えていた。
この夜空の景色は、三津子の心の中だ。男はふと、そう思ってしまった。黒い礼服のポケットに入れた男の手には、鎖と共にペンダントが強く握り締められていた。
了
2015年作品