妄想の淵(2013年銀華文学賞 入選作品)
日曜日の今日。史郎は普段より遅めの朝食を済ませた。それでも約束した時刻には余裕がある。その場で、新聞を広げて読むが、脳裏に智子が離れない。
智子と奇遇したのは三年前である。会社の取締役に、同期の中本と同時に史郎も辞令を手にした。その日に祝賀会だと称し、二人で馴染のスナック青い月の扉を開けた。くしくも、智子の初出勤日と重なる。智子は、肩から白い肌を出し豊かな胸の膨らみを覗かせたワンピースを着て、括れたほっそりとした腰から、ふっくらとした臀部へ、小柄な均整の取れたボディーラインを誇っている。史郎は妻、美子の小柄で調和が取れた筋肉質が美しい肢体より、智子のあだっぽい体付きに一目で魅了された。
さすがに、客への立居振舞は素人だが、話す声音や顔色が若やいで新鮮さが快い。史郎は、未熟な接客で日頃苦労をする智子に、さりげなく気を配った。史郎の悪意のない接し方に、智子はどことなく励まされ、安堵感に浸れる。ときに食事に招き誕生日にはプレゼントを贈る史郎が、離婚したばかりの智子にすれば有り難く、だんだん好意を寄せる。二人で逸楽のときをついやすうち、あまねく男と女の欲求をしらないわけがなく、肉体関係を結ぶには、さほど時間を要さなかった。
昨今、智子は、男性を興奮させる機知も具わり、惹き付ける手管も使える。六十一歳になる史郎は、三歳若い美子の裸身より、十三歳年下のまだ張りがあり、しなやかにたわむ体の智子に、魅力が昂っていた。
昨夜、史郎は、智子が艶かしく腰を振り踊る容姿を思い描いていた。打ち明けると、婚姻が解消されると同時に、以前から感興をそそられるフラダンスを習い始めた智子の発表会が今日である。史郎には久し振りに智子と店外で会い、セックスする思惑もあるのだ。
「あなた、お出掛けの時間、大丈夫ですか」
美子に注意を促され、史郎は正気にかえった。ひとたび新聞に目を移した。何気なく腕時計を垣間見て、胸を撫で下ろす。
「ねえ、桜、咲き始めたかしら。私、今日辺り見に行こうかな」と、ねだるように美子が言う。突っ撥ねるかのように史郎が、
「フラダンスっておもしろいのかなぁ」
「あら珍しい。フラダンスに興味があるの」
「いや。フラダンスの発表会に、k社長の一人娘が出るから一緒に来いとさ。お得意さんの招待だからなぁ、断れなくて」
「色んなお付合いがあるのね」
「仕方ない。年間一億を下らない取引のあるお客さまだから」と、仕事の内容を軽く口にした。平生なら触れない。だが智子に逢える嬉しさのあまり、史郎は、美子に悟られまいと、話の流れで情報を述べてしまった。男のずるさが顔を覗かせた一瞬なのだ。
浮気を始めると、初めは隙間の時間に逢うものだが、いつか、すらすらと逢う時間を作ってゆく。そんな史郎の仕業を美子は、怪訝な面持ちで毎日のように見定めている。
「あなた。まだ時間、間に合うのですか」
再び時計を見て、新聞を畳んだ。史郎は、ジャケットをまとう程度のラフな服装に着替えた。その様子に驚く美子が平静を欠き、
「そんな服装で、失礼ではありませんか」
「えっ。あぁ、平常着でいいそうだ」
「そう。ところで娘さんは、お幾つなの」
穏やかに、凄く穏やかに美子は、訊ねた。すでにして智子に逢えると顔の皺まで笑う史郎は、見破られた。と、美子の形振りにびくびくし、うろたえ眼で玄関に急いだ。
「社長のお嬢さまに記念品か、お祝の花束か何か、プレゼントを忘れてはいけませんよ」
心得顔の美子は、ホールに立ち見送る。土間に立つ史郎は「だから、これから智子のため記念品を買いに行くのです」と、抗言したいのだが、本心を吐くわけにもいかず、
「ありがとう。そうします美子。助かった。あっ、そうか。おまえの学友で、はなみつ、のミッちゃんに花束でも頼んでおけばよかったかな」
史郎は本音で言ったのではない。気をそいでは不味いと、突発に放した言葉だ。
「あら、今ごろ遅いわよ」と、美子は本気で受け答えをした。
「そうだな、じゃ行ってきます」
「ご苦労さまです」
平日、仕事に出かけるとき、かならずこう言って送り出す美子の科白に、不倫をしていることがばれていないと、妙に安心できる史郎は、同じ心境で待合せ場所へ向かった。
出演者には出番までの準備がある。手持無沙汰な史郎は、会場の喫茶室で嗜好品の一つであるアメリカンコーヒーを注文し寛いだ。
フラダンスが終演すると、食事で語らい、その後ホテルのバーで軽くカクテルを飲み、二年振りに智子と夜のひとときを過ごす。そう目論み胸を躍らせていた。透きとおった肌が愛に反応し、か細いあえぎ声を潜める智子の表情を、史郎は回想してしまう。性欲に執着すると、幾つになっても取留めのない映像を写す。みっともない生き物だと自覚した。
今日は朝から時計が気になる日だ。滑稽に感じつつも史郎は、時間を是認した。
フラダンス終了後、ホールのエントランスに出てくる数多い出演者の中で、智子だけにひときわスポットが当たっているように感じ心臓が波打つ。智子に近寄ったとき、午後六時を回っていた。史郎はさっそく食事でもと伺うが、智子が返す言葉は、何も食べたくない。史郎は、今晩の望みをきっぱり拒否される。
「そうだよね。頑張ったのだから、今夜は無理しないほうがいいよ」
優しい素振りで云ってはみたが、どう繋げば望みが叶うのかわからず、史郎は回りへ目を泳がせた。公演が終ってほっとした表情を浮かべる人波の中に、k社長の姿がこびりつくように目に付いた。慌てて顔をうつ伏せ智子に近づき、内緒話の声で、
「智子さん、今日はゆっくり休みなさい。連絡待っているから」
智子はどことなく安らいだ顔を史郎に投げ掛け、口元を緩め一礼をすると、人込みの中へ消えていった。史郎はアルコールが抜け炭酸も抜け、匂いや味が失われたビールを飲んだ気分になっている。これで智子と会えたといえるのか。夕べの喜びや開演前の期待はどこへ失せたのだ。これが不倫する者の痛手か妄言か。この先どうなるだろう、心配する史郎の前にk社長と娘が立ちはだかっていた。気付いた史郎は言い成りに返答している。
帰宅すると、食卓を筆記用具で散らかす美子が、史郎の足音にきょとんとする。
「あら、早いのね。お食事どうしますか」
丁寧には訊ねるが、不審なのか顔を傾げている。
「そうだな。うん、軽く食べたい」
「では、用意しますね」慌てて食卓を片付け、台所であわただしく仕度をする。
美子は、好きな俳句を捻り出していたのだろう。ちょうど八年ほど前、著名な俳人米倉蕉雲(しょううん)に俳句を習うと決意を固め、以来、飽き性の美子がよく続くものだと敬服していた。
俳句を作るのが面白いのか、それとも蕉雲に男性の魅力を感じたのか、いずれにしても、ひたすら夫を愛する美子が、浮気をするとは想像もできない史郎は、どんな先生や仲間であろうと関心もなく、美子を信じ込みことごとくほったらかしにしている。
結婚すると、女の気持ちの変化を知ろうともしないのが男かもしれない。それどころか妻と子供のために必死に働き、記念日に花束でも渡しておけば、妻いがいの興味を惹く女性と関係を持っても、そうあるべきで罪などないと思ってしまうのが夫というものだ。
対面式の台所にいる美子は、食事の仕度をしながら口を開いた。
「ねえ、句会の人が発刊する句集に、私も載せたいのですが、よろしいでしょうか」
「ああ、いいよ。好きにしなさい。でも、発行するとなれば、費用が掛かるね」
印刷会社役員の史郎は、編集費や印刷代の金銭が気になり、どの金をあてがえばよいのか、頭脳が動き出している。
「ええ。それでお金の話ですが、まえまえから相談したいことがあるのです」
屈託する美子。史郎は、何かのときに妻が自由に使えるよう、美子名義の通帳をこしらえてあることを思い出していた。
「任せる。自由にしなさい」と、とにかく今日の報告を問われる前に、史郎は対話の流れを堰き止めたくない。会話がながれるように、いつにもない安易な確答をしている。
「そうですか。実は困ったことがあるので、一度くらいお金の話を聞いてくださいよ、あなた」
美子は、何か心に思い煩うことがあるのか、呼吸が詰まっている話し方をする。
「その内に」と、諭すように首を振る。
男が、その内にと言っても、仕事が忙しいとか、明日は接待だとか理由を述べ、なかなか機会を作らないものだ。美子は幾度も経験している。
「お願い、します。忘れないでいてくださいね」
史郎はしつこく思った。何にせよ、何も食事を取っていない。腹がグーッと鳴るのをごまかすかのように、「まだか」と、大声をだしてしまった。
「すぐですから。あっ、そうそう。明日ね、俳句の会が終ってから、蕉雲先生が句集の相談にのってくださるのよ。だから夕食のことだけど」
「いらない。僕も明日は会議だから遅い。飯はまだか」
「お食事できましたよ。そうですか、それはよかった。では明日の夕食、よろしく」
食事をする史郎の姿へ見入る美子に、まじまじ史郎は魅入っていった。昼間随想した智子を抱けなかったためか、美子の肉欲に刺激を受けていたのだ。
月曜日の今日。中本は、どんなときでも、自分が目当てのナナに会うため「磯、行くか智ちゃんに会いに」と、言い寄ってくる。役員会議が終ると、やはり今日も、いそいそとそう誘ってきた。
青い月のお決りの席でお決りのウィスキーのロックを二人で嗜み始める。史郎の前には智子、中本の前にナナという女性が立つ。これが見馴れた光景である。が、今夜は智子がいない。フラダンスの発表会でたいそう草臥れたのだろう。密かに推し量る史郎へ、もはや頬を赤らめた中本が絡む。
「磯、おまえの奥さんは、素敵だ」
「出し抜けに、どうした中本」
「いや、磯みたいな奴によく尽くすよな。美子さんに愛されているのだ。そうだろう磯」
昨夜、自分の情欲を美子が受け入れたのは愛の証だ。そう史郎は自分で了承していた。
「中本、何を企んでいるのだ」
「そうじゃなく、本当に、相思相愛の仲の良い夫婦だ。とくに美子さんが賢い」
「へえ、そうなの磯ちゃん。でもさ、磯ちゃんには智がいるわよね。智、磯ちゃんを信じているわよ。それとも智の勘違いかしら」
嫌みな言い回しで喋り会話に入ってくるママ。酒の所為で調子にのる中本も、
「ママ、俺は磯が羨ましい。智ちゃんに惚れられ、奥さんである美子さんに愛され」
「そうね。いいわね」と、ママは史郎に向き直り、いやに懐いて、せがんで聞いてくる、
「磯ちゃん、奥さんの顔が見たいわ。一度くらい連れていらっしゃいよ」
「美子の奴、まったく酒が飲めないのだ」
「あら、そうなの。残念ね」
史郎は早く話題をかえようと、カウンターの上でグラスをリズムよく叩く。
「唄いますか」と、ナナがマイク片手に助け舟を出す。ほくそ笑む史郎は、立ち上がり、
「よし。ナナちゃん、デュエットしよう」
「あらあら、中ちゃんに悪いし、智にも」
ママは薄ら笑い。史郎は座り直した。このときだ。入口が勢いよく開いた。それぞれの目や耳が、その方向へ同じに動く。浮かれる健が、鼻唄交りで指定の席に座ると、
「どうも皆さん。はい、ママ。これお土産」
「あらお鮨、どうしたの。ここのお店、高価でしょう。貧乏学生の健ちゃんには、手が出ないはずよ。無理して、どうしたのよ」
疑いを隠さずに、ママが問いただす。
「平気、平気。さぁ、皆さん遠慮なく」と、得意そうな顔付きで話す健に、史郎は額に皺を寄せ、覗き込むように訊く。
「今日のバイトは、夜勤じゃないの」
「はい。臨時収入があったので臨時休業、ってね。そんなわけで、鮨さぁ食いね、飲みねぇ。でも飲むのは自分の金で。よろしく」
「健ちゃん。こんなに沢山、しかも高級な握り鮨。本当は、どうしたのよ」
ママが、まだ猜疑の目で健を睨む。
「実のとこ、偶然、大学の教授に会って、そこで頼まれごとを」
「どんな」と、中本が目を怒らせ被せるよう詰問する。
「レンタカーA社の近くで、白髪の老紳士に声を掛けられて──」健の話を要約すると、
すぐ車が必要になったが、免許証を自宅に忘れた。健の名前でレンタカーを借りて欲しい。明日この場所に私が運転して来るから、そのとき帰して貰いたい。
「胡散臭さが漂う。それで健ちゃん。レンタカーを借りたのか?」と、史郎は危ぶむ。
「だって、借りるときに五万円を払ってくれた。しかも、車を帰すときに五万円くれると言うからさ、こんな贅沢なバイトないもの」
健は、なんら疑問を抱くこともなく、へらへらしている。呑気なものだ。皆に共通する思いだが、これは健のことで、白髪の老紳士をだれもが訝っていた。
「皆さん、不審を抱いていますね。住所も、ちゃんと聴き取った上、担保も、きっちり取ってます。ご心配ご無用、です」
健は強く断言した。と、同時くらいに首をちょっと曲げ、耳をそばだてて健が、
「だれかの携帯電話? 磯貝さんじゃない」
言われて史郎は、立ち上がり、ポケットで振動する電話に素早く手をやり耳に当てる。
「はい。警察? そうです、それで……何。場所は。それで今? すぐ参ります」
「磯どうした」
憂色が濃い中本も立ち上がり、血色をなくした表情を浮かべる史郎の肩を叩く。史郎はうろたえ右手を唇に当て、軽く左右に動かしたかと思うと、カウンターにその手を置き、また唇へ持っていく。そんな様子をうかがいおどおどするママは、
「磯ちゃん」と、声を震わせ繰り返し呼び掛ける。
「何があった」
不安がる顔面で史郎を覗き込む健の挙動が落ち着かない。危惧する史郎は、今にも泣きべそをかきそうだが、一息で唾を飲み込み、
「美子が、家内が轢き逃げされた」
「えっ」と、驚く皆の顔が、上から下へ蒼白になる。自若をよそおう中本が淡淡と、
「それで、美子さんは今どこに」
「救急車でそこのX病院に運び込まれた」
残りのロックをいっきに飲み、席を離れる史郎の背に、届けとばかり荒荒しく、
「俺も行くか?」
中本の声だけが追いかける。
「いいよ、僕一人で。くわしくは後程」
早口で言い残し、史郎は急き込んで立ち去った。皆はその背中を見送っている。
火曜日の今日。史郎は警察署の交通課にいた。事件性が濃厚なため刑事が解き明かすからと、じりじりしながら待たされている。
美子が青空公園正面入口の電柱に、左側頭骨を強打し陥没。思うに即死。と、史郎は昨夜、医師からこう伝えられていた。
どうして美子が一人で青空公園近辺を歩いていた。なぜ、この場所で轢かれた。どう考えても変だ。以前、聞いた俳句の会とは反対で、帰宅途中にしても方位違いである。史郎は美子の不信な行動に嫉妬しだし、智子のことをすっかり忘れている。この思いが、妻と不倫相手の差だと気付きもしない。今はただ美子が死ぬまでの行為が知りたいと駆り立てられているのだ。
その内、刑事が史郎の正面に座り、
「轢き逃げにしては、疑点が多い」と、観照するように史郎を見据え、濁声で話し出す。
「公園そばの電柱に、塗料が付着し痕跡を留めている。車が衝突したのは明白だ。しかしだね、破損した物的証拠が少ない。これは烈しい衝突とは言えない。電柱のそばで死んでいた奥さんの血痕は、電柱に残るだけ。これも特異な現象だ。つまりだね、轢かれたのなら、もう少しそこいらに血痕なり、全身のどこかに打撲跡がある。確かに右の脇腹二箇所に損傷が見られるが、車によるものとは考え難い。しかも電柱に猛打したのが致命傷だ」
史郎は状況が解せず、しぶしぶ首を縦に振るだけ。刑事は話を断ち切らずに続ける。
「さらにだね、タイヤ痕は、追突後いったん後退りをし、もう一度前進させ急停止。その後、急発進させた形跡がはっきりとある。先にも述べたが、車を電柱にぶつけたことは実証できるのだが、奥さんを撥ねたとは、とうてい証明しがたいですなぁ」
事故の経過を説明され、史郎はただ途方に暮れる。刑事は茶を勧め、自身も一口飲み、
「奥さん、どうして青空公園の方へ行ったのですかね。何か心当りがありますか」
「いや、思い当りません」
「そうですよね。では、運転はされますか」
美子が運転? いつぞや免許を取りたい願望があった気がするが、うろ覚えである。
「免許を持っていないと思います」
「変、ですね。じゃ、助手席に同乗したのだね。奥さんのバックとその中身が、外に放り出されたときに散らばって、そこに奥さんの免許証もあり、身元が判明。携帯電話も役立ったね」
刑事は不思議がるが、史郎も不可解だ。
「きっと奥さんは、衝突の衝撃かエアバッグで意識を失った。ぶつけた運転手は、何かの理由で即座に奥さんを隠蔽する必要があったのでは、と考えられる。犯人の運転手は」
「犯人?」史郎は被せて大声を張り上げた。
「そうだ。運転手が奥さんを殺した。まあ、わしの話を聞きなさい」
史郎は呆れて、どう言動をすればと苦慮する。刑事は得意満面に話を元に戻し、
「犯人は、追突後車を起動させ、動くと確信する。それから気絶した奥さんの右脇腹を足で蹴り、再度、もっと強く車外に突き出すように蹴り落した。奥さんは、この弾みで傍の電柱に左頭部を強打。そして即死に至る。この経緯を示す根拠は奥さんの体にある。間違いなくだ、これが真相だ。ご主人、我我は傷害致死と死体遺棄容疑で捜査を開始した」
美子はだれに、なぜ殺されなければならない。私に言えない秘密を持っていた。とすれば美子の優しさは私への見せ掛けか。史郎は疑義を挟む。日頃のおこないまでにも疑心が生じだした。そんな史郎に刑事は、顔を伏せたまま、鋭い瞳だけを向けて、
「ご主人、奥さんはだれの車に同乗されていたのか、知りませんか」
妻の行動を夫が、いくらなんでも知っていなければ、刑事にすればおかしな話だ。こうわきまえ、俯いたまま一考した史郎だが、「いやぁ」と、ただ、言うだけだった。
「そうですか。では交際されていた方は」
「いやぁ」
まるで美子が、浮気相手に殺されたと言いたいのか。史郎は、不快感をあらわにした。
「そうですか。だがだね。被疑者の検挙は、じきにできる。臨場したような位置で目撃者が、走り去る車の頭文字が、わ と認めている。これは、レンタカーを指す。さらに、車種も番号も判明している」
刑事は初めて、真面に笑顔を見せたが、理解できない史郎は、会話がどこかぎくしゃく聴こえて仕方がなかった。
のソファーにぐったり身を委ね、打ち萎れる史郎は、独り言を呟くかのように、
「美子は、自動車免許持っていたのかなぁ」
「何を言っているのだ、親爺」と、雄二が。
「お父さん、知らないの」玲子が冷徹な顔つきで、しかも物静かに質した。
知らない、美子のこと、何もわからない――。史郎は孤立無援だ。後ろ盾が欲しい。この感情を吐露する年齢ではないと抑える。潜んだ史郎の心へ玲子は、
「しっかりしてお父さん。免許は三年前に。免許の話より、母さんに何があったのよ」
声を出すのもやっとに、史郎は口を開く。
「うん。実はなぁ、美子は、なぁ、殺されたのだ」
「えっ」玲子も雄二も数秒ぽかんと顔を見合せた。やがて黙視するには忍びない玲子は、
「警察での話、急ぐ必要ないから喋ってよ」
すでに史郎は、身心が凝り固まっている。刑事は、運転手を犯人と述べ、男性とは言はない。その話し方が、智子を慕うわだかまりを持つ史郎に暗示を掛けてしまった。不倫をしている自分の良心も咎めるが、美子も同じように、男性に心を奪われ、男女の関係に陥り、夫に打ち明けられずに惑っていたのだと邪推をしてしまう。いったんこのような黙想を巡らすと、史郎は美子を難じはじめる。
気が重いまま子供たちに、警察での話を伝えたのは、午後十時を過ぎていた。
水曜日の今日。朝から葬儀の段取りを決める。斎場の担当者が帰ったのを見計らい、
「親爺、母さん交際範囲が広いなぁ」
「雄二、なぜ言える!」
いまだに、ぴりぴりしている史郎は、意を得ずに、親にむかって聞く質問ではない。声を荒立て癇癪を起す。雄二はないがしろに、
「だって、句会の人、婦人会に料理教室、それに、はなみつ、という花屋の、あ、そう、ミッちゃんとかいう人が、問合せてきたりして、色んな付き合いがあるみたい」
史郎は黙止した。午後、親戚の泣寄りがつぎつぎ新たに起りだした。この対応に慣れない史郎は、又いらいらする。ついに、逃げを打つように通夜会場へ出向いた。
通夜が始まる少し前に、青い月のママが斎場で、史郎を探し当て、
「磯ちゃん。健ちゃん警察に連行されたよ」
「健ちゃんが、どうして」
史郎は「そうか」と、レンタカーを髣髴させた。もしや本当は健がレンタカーを借り、美子をドライブに誘い殺した。アリバイ工作のため、高級鮨をご馳走した。すべて健の作り話か。だとすると健が美子の男。史郎は、良からぬ推測をしてしまう。
「ママ、健ちゃんが犯人?」
「なによ、よしてよ、磯ちゃん。あの時間、皆と一緒だったでしょう。頼みますよ」
「そうだね。ではレンタカーの参考人で」
美子の死亡時刻、健は正真、皆と一緒にいた。息を吐いてほっとする史郎に、
「ねぇ磯ちゃん、奥さんにお焼香させて」
「ママ、顔も見てない癖に」
「あら、連れてこないからよ」
「飲めないのに連れて行くわけないだろう」
「あら、花屋のミッちゃんが言ったわ。飲めないって本当なの? 今更どうでもいい。それよりお焼香、いいの、悪いの、どっちよ」
焼香を終え店だからと、いそいそ帰って行った。
僧侶の読経も終り、通夜振舞に入った中ごろ。中本が息を潜め史郎の背後にこっそり現れ、部屋続きの廊下へ連れ出した。条件反射なのか、中本がひそひそと話を切り出す。
「磯、花屋のミッちゃん、美子さんと中学高校が同級だったの?」
「高校はね。でも、結婚式のとき、見てない」
「落ち着いている場合じゃないぞ。ミッちゃん、青い月へ花を納めているだろう。だから智ちゃんと磯の関係がつまびらかなはずだ。それに、入口付近の女性たちは、美子さんの同窓生で、その席にミッちゃんもいた」
「それが、どうかしたのか」
「ちがう。先程、耳に挟んだ。そのグループで、磯の浮気が噂になっていたのだ」
「それ、真なのか?」
だしぬけに思いもかけない、記憶から消えていた智子の顔が史郎の脳裏を走った。
「ああ、本当だ。磯」
「美子に、ばれていたのか?」
「大声を出すな。それは俺にもわからん」
史郎は、全身に虫酸が走り戦慄いた。おさまっていた邪念が燻りだす。美子は、これ見よがしにだれかに恋をしたと言うのか。自分の罪悪感を忘却して、美子が浮気をした執念を燃やす史郎は、そう思い至ってしまうのだ。
九時半、通夜は終了した。本来なら美子の傍で終夜守っているのだが、近年は斎場の責任に任せるらしく、家族も帰路についた。
参列者への配慮や自分の噂話が重く伸し掛かり、史郎は心も体も疲弊した。そんな親の姿が心もとなく、一興の積りで酒を準備した雄二が、史郎を食卓に呼んだ。
「親爺、葬式は気疲れするね。」
「そうだなぁ」
「それにしても母さんが殺されたとは、信じられない。いったい、だれが母さんを……」
雄二は猪口に酒を注ぐと、一息に飲み干した。
今日の遣り切れない何かが、胸の中で靄になって掛かっていたが、雄二と酒をかわしている内に、史郎は薄れてゆく気がしてきた。
「親爺、芸術家風の老人見なかった」
「芸術家風の老人、通夜会場で? いや、思い当らん。その人が、どうかしたのか」
「うん、男性はだれも泣かないのに、その芸術家風貌の老人だけが、母さんに長く手を合せ、泣いた。焼香を済ませると、さっさと帰ったけど」
「そう、芸術家風貌ね。親類にはいないがなぁ。美子の学校の先生かな」
ゆっくりと、しかもしみじみ息子と飲むのも好いものだが、史郎は体が怠いのと意識が混濁気味になり、仕方なく床に就くことにした。
寝室に行く。二つ並んだ一つのベッドが空いている。その空間に忍びやかに転がる。ゆったり寝息を立て無意識な姿で寝る、いつもの美子はもう亡いのだ。美子が健在なとき、旅行に行ってこのまま戻って来なければ、自分は智子と再婚できると、空いたベッドを見詰めつつ喜びを描いていた日のことは、さすがに今夜は思い浮かばない。永遠の眠りについた美子の冥福を祈りつつ、私は独りになってしまったのだと沁みてくる。気持ちが沈んでいく史郎は、考える力もなく、ただ泪を流した。
木曜日の今日。七時に目覚める。左横のベッドに乱れはない。整然と物言わぬ寝具が、今日で美子と死別すると暇乞いをする。史郎は自分のベッドで、わずかのあいだ悲嘆に暮れた。感傷に耽り、人生を朽ちるのが葬儀の朝なのだろう。こうしてはいられない。美子との別れを、自分が無事に遣り遂げなければと、奮起した史郎は子供たちを起し、斎場に行く支度に取り掛かった。
斎場の祭壇で、すでに線香を燻らす。その前でミッちゃんが小さなプランターに花を植えている。よし、良い機会だ。美子が智子との関係をどこまで知っていたのか、当り障りのない話から入り聞き出そう。こう望む史郎は、屈んだミッちゃんに声を掛けた。
「ご苦労さま。ミッちゃん。そのプランターどうするの」
「あっ、お早うございます。これね。美子が大好きだったパンジーよ。鉢植えかわりに高校の同級生一同から」
パンジーに限って、美子は好みある方法で植えていた。葬儀に釣り合わないと、こせつくことはない。美子にふさわしい飾り方だ。
「そう、ありがとう。ところでミッちゃん、美子と中学から一緒だったの」
「へぇ、磯貝さん、知らなかったの」と、侮った言い種だ。史郎には、ミッちゃんの目に鋭く宿る底知れぬ睨みが感じとれた。その目に、何かがありそうで、身震いがする。
「磯貝さん、あなた青い月の智ちゃんと深い間柄なのでしょう」
冷たい問い掛けだ。史郎は黙秘でとおす。
「美子不憫だわ。報いがくるわよ」
不味い。矛先を美子に転じて、もういくらか、情報を詳しく掴もう。
「もうひとつ、聞きたいが、いいかな。美子って、酒飲むの?」
「へぇえ、そんなことも知らないの。どんな夫婦だったのよ、あんたたち。飲むよ。同窓会では、ぐいぐい飲んで、そら強いわよ」
「そうなんだ」と、動じない素振りをする。未知の美子に又遭遇した。まだ一分も経過していないのに、永久の沈黙が続くのかと史郎は思えた。ひとまず、呼吸を整える史郎。このとき、姦しい女性の声が耳に届き、じょじょに大きくなる。それこそ仕打ちか、史郎の前に数人の熟年女性が立ちはだかるように集まる。腰を折り深深と頭を下げる。
「この度はご愁傷様です。美子さんが不帰の客となられ、なんとご不幸なことでしょう」
丁寧な挨拶は、俳句会の人たちだった。
「わざわざ美子のためにありがとうございます。さぞ喜ぶことでしょう。句集の発行でお忙しいのに、重ねてお礼もうしあげます」
句会の一人がなんの話かと、首を傾げて、
「句集の発行とは、どのようなことでしょうか?」
史郎は、するすると折り返す。
「はい。蕉雲先生ご陣頭で、皆さんの俳句を本にされる……。その節は美子も句集に」
反応が悪い。史郎は気骨が折れる。どう切り出す。一人が、思案顔の史郎を窺い、
「もしや磯貝さま。美子さんが自費出版される句集のお話では?」
隣で相槌を打っていたもう一人の女性が、
「そうよ、美子さんが蕉雲先生に、お値段の相談をされている結実しない花達の件だわ」
小太りなのに面長の女性が割り込み、
「美子さん出版費用が嵩むと嘆いていらしやった、恋の句を多く集めた結実しない……」
急に噤み、史郎に一瞥を投げる。そして、
「そうでした。蕉雲先生、美子さんの句、たいそうお気に入りでしたわよね、皆さん」
ミッちゃんから聞かされた酒の話もそうだが、俳句集も美子の話と齟齬をきたす。何より美子と蕉雲の関係が気に掛かる。
史郎は、怒りより息を体から吹き出した後のような虚ろな目を向ける。眉根を寄せしばたたき、情けない胸裏をごまかしていた。その瞬きの一瞬間、見覚えのある顔が入ってきた。葬儀会場入口に立つ、獲物を狙う形相の刑事だ。それに、史郎の前を幾度となく往復するミッちゃんにも、ようやく顔を合せる。
「これでうけたまわりました献花すべて、配列しました。磯貝さま、それでは」
ちらっと祭壇に目を遣る、冷然を執り成すと、すげない態度で入口に行く。このミッちゃんに園児の遠足か、疎らに続く人生を円熟した句会の人たち。先頭を切る一人が、
「あら、蕉雲先生がお見えですわ」
その声に、小太りで面長の女性がおどり出た。続く皆も蕉雲へ、早足で駆けていった。
蕉雲の身形に史郎は「えっ」と、眩惑され小さく叫ぶ。が、「なるほど」と、諒承。雄二が見た、通夜で泣いた芸術家の風貌。健が頼まれた白髪の老紳士と刑事が確信したレンタカーが繋がる。それに、美子を誘惑できる立場の蕉雲。単なる憶測ではない。十分条件で推理ができる。違和感なく氷解した気分になれる。赤にもなり、ときに青にもなり、顔色を変えて立ち竦む史郎。
入口には刑事が待機している。思わず知らず刑事が近づき、被疑者逮捕。期せずしてその場面は近い。史郎は胸騒ぎを覚える。刑事は蕉雲に接近した。当り前だ。私の妻を寝取り、挙句の果て殺し、風上に置けぬ俳人だ。蕉雲、逮捕の瞬間見取るぞ。自然に憤慨し昂奮する史郎を、周囲のだれひとりとして気付かない。葬儀の開始が刻刻と迫り、喪服に身を包む人影もぞろぞろ増える。とうとう、蕉雲も刑事もこの人込みに消えてしまった。
「お父さん、お寺さまが見えましたよ」
玲子が勇み立ち言ってきた。蕉雲が捕まるところを見届けたいが、今はどうにもならない。玲子に応じて控室へ移動した。
住職が合掌する手で数珠を揉む。読経の他に音もなく葬儀が始まった。場内に木魚の音色が一定区切りに刻まれ、焚く香の煙とにおいに脆い史郎は、美子を偲ぶ。列をなし途切れず焼香も進められた。煩わしいのと、自分の疾しさが、のちのち沽券にかかわるとまずい。史郎は、美子へ手向ける人に目を伏せ、頭を垂れて、目先をつくろっていた。出棺の運びとなった。はっと健を見出した史郎は、つかつかと歩み寄る。
「健ちゃん、つまらない嫌疑が掛かり迷惑だったなぁ。この後精進落しと、一七日を同時にするから、かならず待っていて欲しい。皆にも伝えて」
「了解です」と、答える健にも花が渡り、そして、柩の中に菊の花が入れられた。
葬送の車が美子の亡骸と数本のパンジーを乗せ、走り去る野辺送りが終ると、葬儀会場はそそくさ模様替え、次の式典に捗る。
閑寂な火葬場で、美子がついに寂滅の煙と立ち上る。史郎は安らかに昇天して欲しいと願った。うっすら昇る徒し煙を呆然と見詰める史郎に、哀惜に沈む玲子が消え入る声で、
「母さん、あの煙と一緒に……あの世に行ってしまったのね」
ひしひし孤独を感じ、どことなく愁いを含んだ眼差で、消え去る煙を見上げる史郎が、
「そう、だなぁ」と、細る声で返事をした。
「お父さん、これからどうする? 一人よ」
「うん」
そう言われれば、向後独り暮らしになる。落莫たる老後に耐えられるのか……。
「そうね。お父さん。一七日までは毎日、四十九日までは、できるだけ実家に居るわ」
玲子の親切さに承伏すればよいものを、昏迷する史郎は、慰めが欲しければ智子がいると、意地を張って返答に窮する。それより、美子を殺した犯人が懸念され思い屈す。蕉雲逮捕はと、気が逸るのも又、事実であった。
史郎は白い布に包まれた美子の遺骨を、子供たちが遺影や位牌を手に、斎場二階の法事会場へと入った。とくに席の指定はないが、必然と仲間が集いその単位で放談している。
部屋の一番奥に手軽な祭壇があしらわれ、火葬場から持ち帰った遺骨などを、そこに飾れと指示され納めた。史郎は入口辺りで青い月の連中を認めた。その横に美子の同級生、その横側に親族たち。祭壇近くで、句会の人に混ざり頬が緩む蕉雲が目に留まった。確固たる判断で、蕉雲が犯人と裁定を下している史郎は、刮目する。せいて苛立ち、なん度もなん度も蕉雲に目を配る。
さしあたり一七日の法事も兼ねた葬儀の挨拶をする。それから献杯を澄ませ、健の横にばたばたと着席した。蕉雲へ目で指し、史郎は確認しょうと小声で、
「健ちゃん、白髪の老紳士って、あの席の」
史郎の目を追い、合点した健が、
「そうだよ。大学で国文学の教授だよ。あの爺さん俳人だってね。信頼を置ける人だ。ちゃんと車を帰し、約束どおりバイト代の残金も払ってくれたよ」
健の簡潔な叙述に好感され、真の話に聞えた史郎は、蕉雲の潔白を信じ鷹揚とかまえる自分が異様に思えた。あんなに先入観にとらわれていたのに、それはゆっくり音も立てずに崩れてゆく。何より、蕉雲を師事し慕ってきた美子を考慮して、愚か者は自分だと悟る史郎は、にわかに空一面の雨雲が青空を覗かせ広がる、心地好い気分で蕉雲を見た。
それから史郎は離席をし、列席者に酌を取る。横隣にいる美子の同級生から回るかと足を進める。悲しい表情だが子細顔で内密に語っている。どうせ、私の悪口を言い合っているのだろう。史郎は、観念してぐるりと見回した。花屋のミッちゃんがいない。束の間、同級生を傍観した。こそこそ耳障りで我慢できず史郎は、いきなり談話に入る。
「葬儀前に居たミッちゃんが、いない?」
驚く一人の女性が敏感に反応したのか、
「三津子夫婦が経営する花屋が大変なの」
いっきに口を滑らせ「美子のご主人」と補う。
史郎はミッちゃんの名前、三津子と初めて知る。内緒話の焦点がそんなことか、決りが悪く斜めに振り向く。そこは親族縁者が寄り合って、久方振りの対面を剥き出しに、賑やかにうかれているような空気がある。どうも溶け込めない予感がする史郎は、この席を後回しにした。史郎の心情は、蕉雲と早く会話がしたいと揺らいでいる。他の参集する人たちを飛び越し、史郎は俳句会の席に入り込む。どことなくたじろぐ史郎は、生唾を飲み込む。旨そうにビールを飲みご機嫌な小太りで面長の女性が、はっきり見極められ史郎は、
「一献どうぞ」と、ビールを優しく勧める。
「あらぁ、ありがとう。美子奥さんも句会の新年会では、ビールをよくお飲みでしたわ」
「そうみたいです。さぁ、もう一杯どうぞ」
尻込みはしない。ミッちゃんから情報を得ている。史郎は放念でき、左手の握り拳を唇にあて、ひとつ咳払いをした。それから蕉雲におじけずに声を掛けた。
「先生、はじめまして。磯貝です。本日は美子のため、本当にありがとうございます」
「それは、ご丁寧に」
緩やかな口調で柔和な蕉雲に、隣の席にいる女性が、抜け目のない明敏さで、
「先生、ご主人がいらっしゃるときに」と、責問した。史郎は目を丸くするが、蕉雲は、
「そうだね、久美子さん」と、再び史郎へ、
「ご主人、お願いが一つございます」
「なんでしょうか」
「ここに美子さんの最後の俳句が。列席の皆さまにご披露してもよろしいでしょうか?」
言葉をまじえるだけで、俳人風情のある上品な所作に、史郎は威容に圧倒された。
「はい。ありがとうございます。ぜひ」
「かしこまりました。でわ、失礼して」
蕉雲は軽く会釈する。立ち上がり美子が眠る遺影の前で合掌をする。振りかえり、
「皆さま、少しお耳をお貸しください。故美子夫人を心底私の弟子と心しております、俳人米倉蕉雲と申します。今週月曜日に故人から預かりました句が手元にございます。その折、よもや遺作の一句になるとは……その句を弔歌として詠ませていただきます。では、
一人来る見上げる桜一つ咲く
この遺作になった句を、私は噛み締めております。まことに惜しい人を亡くしました。感慨深いものがございます。ありがとう」
目頭を押さえ蕉雲は、目礼して着席する。会場のどこからとなく嗚咽の声が満ち、美子の遺影を包んだ。やがて咽ぶ声が蕉雲の背中に反響する。俳句になんら趣はない史郎も、なぜか胸が熱く、じいんと締めつけられた。
「ありがとうございました。唐突ですが、先生、ぶしつけなお訊ねをします」
「はい、なんでしょう」
「美子の聞き漏らしですが、句集を発刊」
「はい、そうです。こちらの久美子さんとお二人で。俳句としては、まだまだ未熟で、結実しない花達、と句集名を定め、進行中です」
頷き微笑む久美子が、句会の人と言う意味だったのか。凋んだ花を見ている気分だ。
「ご主人、一杯、いかがですか」と、銚子を手に蕉雲が一笑を浮かべ、内談のように、
「美子さん、話してくれました。ご主人はご自宅で晩酌されないとか。ご本人は、お酒がお好きでしたが、合せなければと、お家では一切飲まれなかったようですね」
ここも史郎は把握ができていない。もともと磯貝家系は、そうじて酒が飲めない。仕事上、飲む機会が多く知らず識らず酒が強くなった史郎だが、今もって進んで飲む程ではない。美子と交際の最中でさえ、酒を一滴も口にしなかった史郎は、そうあるように美子も当然そうなのだと自身許してきた。悪い気がする史郎は、遺影の美子に、応接の持て成しと盃を手向ける。と、呪術か? 蕉雲を犯人だと決め付けたレンタカーをなぜ借りたか尋問すれば。と、美子の声が史郎に達し、
「先生、健ちゃんにレンタカーを借りて欲しいと、頼まれましたよね?」
「ああ。あの調子のよい学生ですね。ええ、私も歳です。山梨に抜ける道中のお寺に私の句碑が建ち、美子さんと久美子さんと、月曜日に行く約束をしておりました。うっかり車で来るのを忘れましたね。タクシーとも考えたのですが、途中景観の素晴しい所が幾つもあり、気儘に一句作りながら楽しもうと。本当に物忘れが激しすぎます」
「そうでしたか」
なぜ美子と一緒ではなかったのだ。無理にでも連れて行ってくれれば。そんな思いが史郎の心でほとばしる。蕉雲は、史郎の表情を察知したのか、
「そうそう、久美子さん。なぜ美子さんは、ご一緒でなかったのですか」
唇だけにっこりする久美子は、迷わず、
「だれかに呼び出されて、急にそちらへ」
「そうでした」
史郎はぐいっと盃を飲み干し、蕉雲に返杯すると、物静かに一礼して席を立つ。
グループ毎の、めいめい特徴に神経を磨り減らし酒を注ぎ回った。やっと青い月の席に戻る。わずかなときが過ぎただけなのに、仲間の快感が懐かしく、史郎は吐息を吐いた。
「おい磯、一杯ぐらいどうだ」と、中本が待ちかまえて銚子を揺すっている。史郎は疑念が解け、心気がぱっと晴れた。気持ちのゆとりからか、酒を味わうように親しんだ。お互いが店での雰囲気を醸し出し、酒を飲む。史郎も、ほっとするものを感じ智子を捜す。何を思ってか、その場でナナが、
「それはそうと、智さん、今日も、いない」
苦い顔するママは、しいて笑みを作り、
「そうね、智、どうかしたのかしら」
こうして何もかも葬儀は終了した。
斎場で健気に活躍した玲子が、
「お父さん、くたくたでしょう。お茶でも淹れますか。それとも少し飲まれる?」
「そうだなぁ。雄二、おまえもどうだ」
雄二と飲むのは心が解れる酒のはずだが、どうも喉が渇き引っ掛る。まだ犯人がわからない。刑事が言い切ったレンタカーに、なぜ美子が乗っていたのか、胸につかえる。突如玄関のチャイムが鳴った。史郎はいまどきだれかと、肩で息をしながら時計を見る。午後九時近くを針が指す。重い腰を上げ玄関に行く。また、あの刑事が立っていた。
「夜分、失礼。被疑者検挙の知らせだ」
リビングに招き入れる。腰を下ろすや否や花屋の三津子が美子を殺した。と、聞かされた。一呼吸する暇もない。まさかの犯人に、鼓動が脈絡を通り全身に行き渡ると、史郎は息苦しくなる。声は上擦りそのうえ震えて、
「なぜ? 美子を、殺した……」
「それがだ、ね。花屋、つまり、はなみつ、の経営が三年前から破産状態で、嘘で固めて奥さんに、しかも半ば強引に七百万円借りたのだが、いまもって自転車操業ですわ」
史郎はそんな話、一度も聞いていない。
「しかもだ、返済期日をなん度も破る。そこでだ、ね。月曜日に返済の件で被疑者三津子が奥さんを誘い出し、被疑者の運転で喫茶店へ向かっている途中、事故を起した。これが殺人の誘因になったようだ」
刑事の声が、史郎には不気味に拡がる。しかも美子が句集を発行するため、急いて気を揉み返済を迫ったのでは、と懐疑を持った。
「被疑者三津子は、交通事故に見せ掛け、奥さんが死ねば、借金が消え失せる。とっさに閃いた。と、そう言っている。まぁ、よくある話だが。犯罪者に多い身勝手な錯覚というのか、己の都合のよい妄想だがね。妄想を信じ込むと気が楽になる。皆、そう思うのだ」
アハハハと、刑事は大声で笑った。
「まるで説法ですなぁ。まぁ被疑者三津子も自分さえ良ければ、おそらくそう考えたのだろう。それにしても、三年前の奥さんの苦しみはとても辛かったでしょうに。ご主人は、理解していましたか」
史郎は、口を歪めた赤鬼になる。
「いつも何も知らんのですなぁ。免許証のこと、借金も。ずっと奥さんと喧嘩でも?」
刑事の問いに癪に障る史郎は、強気で、
「どうしてミッちゃんがレンタカーで」
「ああ、それですか。目撃者が、わ、と、め、を見違えまして。でも番号は、八七三二つまり、はなみつ、と宙で言えたお蔭で犯人(ほし)が割れました。本当によかったですわ」
自嘲的に笑い、せかせかと帰っていった。
花屋の三津子が犯人とは考え及ばない。不意に虚脱感に追い詰められた史郎は、ソファーを背凭れに項垂れうずくまってしまった。七百万もの金を黙って他人に貸すなんて。史郎は失意の底に沈む。いや失意の淵を歩いているのだ。散策するうち、美子の心中を察すると想像以上で、感慨無量を覚える。
そう三年前、史郎は役員に昇進し自慢の絶頂にいた時分、生き様が一変していた。智子と知悉の仲になり、何度か情を結び、漫ろに思慕を深めていった。そんな頃、美子は三津子に多額な借金の相談をむしろ強引に持ち込まれ、また同じ頃から、久美子と自費出版する話も持ち上がっていた。美子は一人でもがいていたに違いない。うっせきした感情を夫にも打ち明けられず空虚になってゆく美子の胸中を、史郎は仕事にかまけて、推量するどころか省思もしなかった。今更めく、ふと、思いがそこにいたっても歯痒いだけ。だが、美子が殺されたのが無念で口惜しい。でも、自分がつれなく嘆息を漏らしてしまう。
しょんぼりする史郎は、どっしり重い睡魔におそわれ、中枢神経が痺れ気だるい体のまま、長い一日を閉じた。
金曜日の今日。雄二は、会社が忙しいので、と早朝から出社して行った。史郎も喪に服する期間だが、社長はじめ葬儀で世話になった人たちへ、謝礼を述べるため会社に出かけた。謝意をあらましに終え自分の役員室に戻る廊下で、中本とばったり出会った。
「昨日はお疲れさま。磯貝、よくやったよ」
「中本こそ、ありがとう」
「いや。そうだ、k社長、非常に喜んでいたぞ。娘さんが出演したフラダンスの発表会に行ったそうだね。それに、記念品まで贈ってくれた。と、社長、大変感激していた」
「まぁ……なぁ」
そう言葉をかえしたが、社長の娘のために行ったのではない。智子が発表会に出ることを史郎は一年も前から知っていた。だから偶然、社長の誘いに乗ったのだ。そう云いたかったが、うまく声が出なかった。加えて中本にわかるわけがないと諦め、天井を見上げ顔を下ろしながら苦笑いをした。
「そうそう、それに、娘が疲れ果てて、お誘いの食事が一緒にできなくて申し訳なかった、と、謝っていたぞ」
云われれば智子を会場のロビーで見たのは、会話する暇もない程度の時間だった。史郎は一人帰路に着いたとき、だれのためにフラダンスの会場へ来たのか、だれに食事を誘ったのか疑問が湧き、もやもやと心気を病んだ状態だったことを、思い出してしまった。
これだけの立ち話の後、史郎は役員室の窓辺にいた。西に傾く太陽に八分咲きする桜をぼんやり眺めている。
智子と既に二年も関係がないのに、他の男性と語らっている姿に嫉妬し、彼女は自分の恋人だと決め付けて止まない己がいる。史郎の胸裏に、みだりな思いが身に沁みてきて遣り切れなくなる。これは智子に幻惑されているのかと、ふっと感慨してしまう。それにしても悲惨な週だったと、史郎自身哀れを止めていた。
いつまでもぼんやり桜に見惚れていると、昨夜の帰り際に蕉雲が、美子の遺作を玩味した言葉が蘇ってきた。
「美子さんは、だれと桜を見に行きたかったのでしょうね。ご主人に、違いないでしょうが、しかし、一人で行かれた。例年より早い開花とはいえ、まだ早すぎたのでしょう。ひとつ咲いているだけ。美子さんは、その桜の花に、何を見たのでしょう? 自分自身の姿か、いやご主人の、それとも……」と、言い掛けたとき、ちょうど人人が動き出す。史郎は順次礼を繰り返し、蕉雲もその流れに乗って去った。言い落す形の
「それとも……」で止まった発言の意味を、史郎は勘繰るのだ。迷妄を史郎に与える効果は甚大になってしまった。この時刻、冷静に思考する史郎は、今頃知ったところで、美子に質すことはできない。捨鉢に封印することにした。青い月に立ち寄りたい焦りもあるが、とにかく喪中につき、早めに真っ直ぐ帰った。
唯一、美子に会える遺影の前でローソクを点す。ほのかに揺れる灯火に目の神経が誘引され、意識が薄れてゆく。やがて、湧き出る情念が美子の気配を感じ、目がくらくらしてくると、憐れむ美子の姿態が部屋全体に幻灯される。抱き付くように史郎は、うつし絵にのめり込み、美子と居る感応を強くする。そして、「ごめん」声を放つと、幻覚の世界から現実の我が家に引き戻された。再会のひとときが醒めても、ややふくよかな美子が、史郎の眼球には、はっきりとあった。
「おい、渋みの利いたお茶を淹れてくれ」
「はい。お父さんは、玄米茶でしたね」
「忘れたのか、僕は緑茶だ」
「ごめんなさい。はい、すぐに」
蛇口を捻り、コンロで湯を沸かす玲子。息を弾ませ急く動作は、美子と同じだ。
「はい、お父さん」と、茶を差し出す玲子を凝視する史郎は、
「玲子か」と、美子を外した気持ちがでる。
「どうかした? お父さん」
「あ、ぁぁ。美子そっくりだなぁ、玲子は」
「当り前でしょう。親子だもの」
「そう、か」
暗然なる面持ちの史郎を察する玲子は、潤いを与えようと、わざとにこやかになり、
「今朝ね、買物帰りに、桜並木の川沿いへ回ったのよ。このまま天気がよければ、明
日には満開になるわ」
「そうか」と、答えたが一刻にして蕉雲の面差しが浮かんだ。
「あっ、玲子。その桜だが、昨夜の帰り際、蕉雲先生が言った俳句の解釈……」
「後ろで聞いていたわよ。どうかした?」
問い詰めるように玲子は質した。
「うん、なら早い。美子がひとつ咲く桜にだれを見たのか? 蕉雲先生に念を押すか?」
間を置かないで、それも静かに話しだす。
「だれを見ていてもいいじゃないの。どう思慮しても、もう母さんは、亡いのだから」
「そうだよなぁ、やっぱり。でも、肺腑を衝く言葉で、どうしても悩む」
史郎は腕組みをし、首を傾げて項垂れてしまう。
「何かと迷想するのね。ばかじゃないの、お父さん。母さんが信じられないの」
冷やかに叱責する玲子は、史郎にいきどおる。情けない父親の胸の霧を看過して、「むしろお父さんこそ、他の女性にご執心だったのでしょう。母さん感付いていたわよ」
やはり智子とのことが、美子にばれていたのか。娘の前で惨めな破目に陥る史郎だが、
「うん。でも、やっぱり気になる」
「ことさら何を心配するの? お父さん。しっかりして。母さんに、愛されていたのか、裏切られていたのか、今となっては、人の噂や話題の中にしか、真実が見出せないのよ、お父さん。そんなのばかげているわよ」
玲子が言うとおり、美子の真意はもう、どうしても掴めない。こんな結果になるなら、フラダンス発表会の夜、美子との最期のセックスは、残された者が将来忘れずに覚えておける、激しい行為にすればよかった。智子とのときは、新鮮に感じ、いつもあの手この手と工夫をして性行為をしたのに、どこの夫婦も同じだろう、美子との行為はお座なりに定まったやり方しかしてこなかった。美子との最期ぐらいは、美子にも自身にも、印象深いセックスをすればよかった。史郎の脳裏には、悶々とした何かが渦巻いていた。
美子と智子の裸身が重なり、どちらの肉体がだれなのか判らず、史郎は幻想に吸い込まれていた。意識や記憶が明瞭でなくぼやけている。美子は逝った、智子は離れた。このことが史郎には、まだ幻影だと思い込んでいる。虚ろな目を位牌へ向けてだれている史郎。
「お父さん」
史郎の形振りを見ていた玲子が強い口調で呼び掛けた。朦朧とする史郎は、気付いて玲子のほうを見詰め姿勢を正した。
「おとうさん。しっかりして。これからは母さんに真心を手向け、守り続けてくださいよ。善からぬことを考えないでください」
「ああ、大丈夫だ。そうする」
抵抗なく、しまりよく自然な感覚で返事をした史郎に、安心したのか玲子が繋ぐ。
「そう。それにね、仏壇とお墓を購入するお手伝い、私はもちろんですが、雄二もお金を援助したい、と、申し出ました。だって、もう母さんには、親孝行がしたくても……」
玲子は差し含む。史郎は鋭利なもので胸を刺された思いがすると、すばやく血が吹き出すように、美子を欺いた塊のようなものが、勢いよく体から抜け落ちた。史郎の目に涙のしずくが垂れ、二・三回擦る。玲子は、宥め説き伏せるかまえに姿勢を直し、
「それにお父さん。花屋の三津子さんを恨んでは駄目よ。お母さんへ借金を申し込んだときには、花屋のご主人すでに行方不明だったらしいし、母さんも一つ返事に断れなかったみたいよ。ちゃんと罪を償ってくるわ、三津子さん」
史郎は、途切れた言葉を継ぐ気になり、
「僕も、美子に罪の許しを乞うよ」
「何を、言うの。それこそ母さんよく話していたわ。お父さんは他の女性に心を奪われる人ではない。真面目で小心者だから。ちょっと浮気心を遊んだだけ。男の夢だから、一度くらいわね、と母さん話してくれたわ。そうね、気が弱いからお父さんだから、すぐに妄想する悪い癖があるのよ」
娘とそんな話をしていたのか。美子自身の心の内も、玲子に話していたのだろう。史郎はふっと、そんなことを思ってしまった。
その頃、開店前の青い月に、指定の席に中本、その前にママだけが居た。中本は、決まったウイスキーロックのグラスを両手で包み、中を眺めて、
「ママ、k社長の娘と智ちゃん同じフラダンスの教室だったよなぁ」
「そうよ。智から聞いたから」そう言ってから、ビールのグラスを口に持っていく。
「そうか。ならいいのだが」
「何よ? 中ちゃん」
ママは、奇怪な出来事でもあったのかと訝る顔をうかがわせた。中本は無視して、
「いや別に」と、一言だけで、ウィスキーを口に含む。そして息を吐き、
「ママさぁ、智ちゃんと磯って、男と女の関係なの? それって本当なの?」
聞き難そうに訊ねた。
「初めの一年近くは、智も真剣だったと思うよ。そのうち、智が、ねぇ……。疑い深いと言うのか、小心者と言うのか。それにさ、磯ちゃんて、妄想的なことを良く言うよね。だからさぁ……ねぇ」
「やっぱり、そうか」
中本は納得の頷きをくりかえした。ママはビールを手酌した。
「でもさ、中ちゃん。この商売をしていると、男って皆、あの子に愛されている、信じられていると、そうね、好き勝手に妄想しながら生きているわよ。私にはそう見える」
「そんなものかね」
「男って、そういうものよ。中ちゃんだって、ナナに対してそう思っているくせに。大丈夫だよ。男って皆、見栄と妄想で生きているのよ。」
中本は場の成行きが、きまり悪くならないよう、さからわなかった。
ママがいう通りかもしれない。妻いがいの女性の前では、見栄を張り、好かれていると思い込む。男は妄想しその淵を、ぎりぎりに見栄を張って歩いているのだ。中本は、磯貝も自分自身もそうだったのだと、思えてきた。
「ところでママ、智ちゃん最近見ないが、どうかしたの?」
「それが、実はね……、一か月前に、再婚するからと」
「辞めたの?」
「そう、辞めたのよ」
中本は見開き、すぐに片目を細めると唇も歪めた。
「へぇ! ママ悪人だ」
鋭い目をつくり、ママに視線を送る。
「いやだ。言えないでしょう。それこそ磯ちゃんに罪作りよ」
やたらなことは言えない、そんな顔をしたママに、ほかに何かがあると中本は感じた。
「だよなぁ……。まったくだ」
軽く頷くように語り、ロックを飲み干した。決まり悪そうにママは続けた。
「ねぇ、中ちゃん。お客さんの奥さんが、美子さんと同じ俳句の会に居るのよ」
「だから」
「その人から聞いた話だけど、でも、ここだけの話にしてよ。絶対に」
「わかってる」
「蕉雲先生と美子さん、かなり懇意な間柄だって」
「そんな噂話があるのか。で、まさか、男と女の関係までも」
「さぁ、ね……」と、言って目を泳がせた。
奥さんに愛されていると信じ込んでいたことが、もしや、妄想だったのか。中本は磯貝が哀れに映り、夫婦の愛が恐ろしくなっていた。
了
(2013年銀華文学賞 入選作品)