金木犀が二度咲いても
①
磯河有希子は大鳥居の前に着くと、西空へ目を向けた。
なるほど、予報通りどんよりとした雨雲が見えている。
天気が崩れる予感が増す彼女には、今夜の寄合が面倒に思えてきた。今は三嶋大社の上空は青く晴れ、心配する必要がなさそうだ。
そう判断した有希子は、ほっと息を漏らし、大鳥居を潜り石橋を渡った。
元宮典子も続いた。
身振りを交えて話す中学からの親友・典子が、三日前から有希子宅へ久しぶりに遊びに来ている。午後の新幹線で帰るまでの時間、三嶋大社を案内がてら二人で散策しているのだ。
参道の左右の神池周辺に垂れ下がる、桜の新緑もきらびやかに吹いている。
二人はときおり爽やかに寄せる風と共に総門へむかって、ゆっくりと歩いていた。
北条政子が勧請し殊の外信仰したと伝えられる厳島神社案内立て札に近寄ったとき、典子は昨夜からの気掛かりを確かめようと口籠りながらも、
「ねぇ有希。結局ご主人」
そう訊ねると、直接に顔を合せて言い難いのか、手首を小幅に振って歩調を速め、先に総門を抜けた。
有希子も足つきをあわせ、後を追う。
典子は左手の社務所へ首をやったまま、そらとぼけて喋った。
「ご主人、二日とも帰ってこうへんかったなぁ」
「ええ。どうでもいいのよ」
有希子はさらっと答え、
「典子。うちの人、外に女が居るみたい」
鷹揚に笑ってみせる有希子の顔に、どことなく寂しさを覚える典子は、追及を止めた。
「ごめんね。五年ぶりに大津から来たのに気を遣わせて」
「うちが勝手に。ほんまに、かんにんやで、有希」
典子は話題を変えようと、思いつくことを繋いだ。
「それより、卒業して何年になる。一度ぐらい同窓会に顔を出しいなぁ」
「そうね。こう出席しないと、同級生に忘れられるよね」
まるでその頃に戻った有希子は、朗らかな表情を顔に浮かべた。
「ほんまやで」
典子は軽いリズムで返すと、同じ調子で続けた。
「有希。長男の浩三君、あんたに似る、と言うよりも、なんか、面差しがあんたの、昔の初恋の人に、ちょっと似てへん?」
「本当? 典子もそう思う」
にこやかな顔付きをすると、大袈裟なほど澄まし、それ以上話そうとはしない。
小幅で進み、静かな刻が気になるのか、左手の白いジャケットの腕をめくり、有希子は時計を覗く。
「時間が経つのは早いのね」
そう言って、神門へ足を速めた。
通り抜けた右手に、千古の謎が偲ばれる金木犀がどんと立ち、その側に説明文が立っている。
──根廻り三メートル、地上一メートルのところで二大枝幹に分れ、枝は空から円を描き地面に届くほど垂れている――
と、記されている。
そのように見えるが、その広がる枝一本一本に添え木がされ、もろく感じないわけではない。
でも老木の枝の広がりが、時代時代に生きていた多くの人間の生き様を見てきたのだとでも言いたげに、どっしりとした勇敢さを感じさせる。しかも老いてもまだまだ、これ見よがしに立っているようにも見えてくる姿は、人の心に迫ってくるものがある。
有希子は見詰めるたびに、こんな印象を強く受ける大樹の前で足を止めた。
典子も、どこが幹でどれが枝なのと惹き付けられ、唖然たる面持ちで立ち止まる。
「典子。大社さんの、この巨木はね、二度咲く金木犀なの。九月中旬に一度散ると、また十月上旬に二度目の開花を迎えるのよ」
「ほんまか。二回も咲くの。うちは聞いたことあらへん」
「そう、珍しいわ。樹齢一二〇〇年、国の天然記念物なの」
「へぇ、そうか」
典子は金木犀の深緑生える枝を見上げ、さながら予言を的中させる前触れを感じたのか、それとも乙女心を味わっているのか、両手を胸元で合わせ、改めて見詰め直す。
「ふぅん……。そうや、惚れて別れた男と、この金木犀みたいに、二度咲けたら、ええ、のになぁ、有希」
有希子へ振り向き、初めはくっくっと、仕舞に軽く笑いだし、
「それこそが、ほんまの青春やで、有希」
この年齢でほんまの青春――て、あるのだろうか。
もしあるとすれば、そうね。
過去の時代を現代に導き出し、一度目は青春を咲かせて思い出に浸り、二度目は青春を咲かせて真っ盛りに生きている。
本当にあれば愉しいだろうなぁ……。
そう微笑ましく感じながら有希子は、典子を三島駅新幹線ホームで見送り別れた。
その足で駅前郵便局に向かった。月初めだが、さすがに雨模様を気にしてか、局内には待つ者が少ない。
昭和五十年代に入ると、街角で目にする機会が少なくなった赤いベレー帽の丸型郵便ポスト。その小さなレプリカの貯金箱が、二番窓口に置かれていた。
校舎に釣り合わない赤いベレー帽のポストが、校門前に設置されていた中学時代を、有希子はふと懐古した。
暗黙のうちに放課後ポストの前で、わくわくする鼓動を抑えながら待ち合わせ、一緒に帰宅した小野寺との潜んでいた生徒時代へ吸い込まれていたのだ。
「磯河有希子さん」
有希子は、邪魔に聴こえる女性局員の声へ顔を向けた。
「磯甚の女将さん、いつもありがとうございます」
「このポスト、近頃、見掛けなくなったわね」
「ああ、このベレー帽タイプの郵便ポスト。そうですね、いまは四角いポストが主流ですから」
「私には、馴染のあるポストだわ。ねぇ、これ、いただけるの」
「保険に加入された方には」
典子の言葉に刺激をうけ、若き日へ帰りたいのか、何の迷いもなく、主人に掛けるわ、と有希子は無意識に首を縦に振っていた。
「ありがとうございます。では、さっそく書類を」
「あっ、いや、大社の祭礼の会合で時間がないの。明日にでも、外回りの方に訪ねていただければいいわ」
明治に入って三嶋大社の例大祭が、毎年八月十六日とその前後日に執り行われている。この期に併せ、昭和三十年から三島市でも、三島夏祭りと称し、源頼朝の出陣を模した行列と、このおり山車が出て、三島囃子の披露も催されるようになった。
昭和五十七年。
本年度の打ち合わせが今夜、社務所である。
本来なら氏子総代の主人、磯河伊三郎が出席するのだが、昨年以来、三島夏祭りに関して、鰻横町組合の重要な寄り合いが幾度となく重なった。
このため有希子が主人の代理で、一度例大祭の会合に顔を出したがため、欠席するわけにはいかなくなっていた。
鰻料亭・磯甚界隈も一年で最も賑わいを見せる。だから、どちらの会合も磯甚にとって意見を述べる重要な集まりであった。
昨年、叩き上げの向井が大社南警察署署長に就任してからは、例大祭会合の後、集った者で無事に神事と祭りが成功する祈願と銘打って、磯甚の料亭で飲むのが恒例になってしまった。
それこそ参加者は、議題より宴会が楽しみに集合してくる者がほとんどである。
店に戻った有希子は、二階にある自分の部屋で着物に着替え、女将を強調する濃い目の化粧直しを始めた。
身支度を済ませると、郵便局の帰りしな、雨粒がぽつんと頬に当たったことが懸念され、庭園が望める硝子戸へ歩んだ。
廊下の古びた木枠の硝子戸をそっと開ける。
五月雨にはまだ早いが、霧状に吹き付ける雨に瞼を閉じ、尖った赤い唇から、ふぅう、と息を吹くおんなの顔付きが色気をさそう。
来年に四十路を迎える有希子の、ひときわ豊満に女の匂いが漂うきゃしゃな姿に、男ならだれもが欲情を駆られる。
板前頭の徳治もその男の一人なのか、庭に建つ料亭の縁側の廂から、硝子戸に立つ有希子を捉えると見惚れてしまった。
顔を少し傾ぐ彼女のきつい目につかまった徳治は、さも急用がありそうに、騒ぎ惑うように手招きをした。
有希子は、焦って店へまわった。
「あぁ女将。電話です」
調理場へ続く暖簾をくぐりながら呼び止めた徳治が、改めて玄関の手前にあるレジ上の電話へ、指を差した。
有希子はレジの傍に行くと、受話器を取り急ぎ耳に当てる。
「もしもし。ああ、向井署長。今から社務所へ向かいます」
「そうか。で、今年も案の定、宮司は参加しない。それに四月に赴任してきた交通課課長、芳原を連れて行くから、だから、あらかじめの、計十五人で頼む」
「はい。わかりました」
向井の太い声が幾分小さくなり、
「で、支払いは、いつもとおりわしが」
「はい、承知をしております。では、今夜よろしくお願いします」
電話を切ると、妖術を使ったのか徳治が横に立っている。
彼の目と遭った有希子の眼差しが強張り、あんぐり口を開けた。
「徳さん、目が、恐いわ、目が赤いわね」
赤く充血した目。赤鬼の真っ赤な目に有希子はいくぶん怯んだ。
徳治は目頭を擦り、照れ臭そうに店内へ視線を泳がせた。
「夕べ、飲み過ぎまして。へい、少し参りました」
「そう」
有希子は、きっぱりした声でかえし、一呼吸を入れた。
「出席は十五人のままです。今晩は忙しいのよ。気を張ってね」
「へい、了解です。ところで女将。予報では、これから雨が強くなるそうで、この着物だけでは、それに、その草履では」
撫で肩で着物がふさわしい有希子をしゃあしゃあ見詰め、徳治が問いかえした。
「それも、そうね」
有希子はレジカウンターにつかまり、着物の裾を少少捲り、右足首をちょっと上げた。首を下へ振り向かせ、草履の高さを確かめ瞬きをする。
俯く彼女の襟足の白さ、首も長く女の艶っぽさに、徳治は虚ろな目をして惹き付けられていた。
「いい年をして、もう」
「へい、すいません。いつ見てもお美しいので、つい」
恥らう素振りをする徳治だが、すぐさま勢いよく頭を有希子へむけた。
「ところで、前回の会合で、今年こそ例大祭の最終の日に、流鏑馬神事が再興されるとか? あっしは流鏑馬が大好きで」
徳治の顔付きに威容に圧倒されるが、場を取り繕い有希子はかえした。
「今年はね……。うまくいって再来年、昭和五十九年からかしら」
「そですか。へい、待ち遠しいですなぁ。文治元年、かの源頼朝も流鏑馬を奉納している。勇壮でしたでしょうなぁ」
徳治は目を瞑り、恣意に妄想して問わず語りに語る。
「流鏑馬を見るときは、女将のように、美人で着物が似合う女性と一緒に、へい。そりゃ、嬉しくてたまらないでしょうなぁ」
「何をばかげたことを言って。コートを羽織ってきます」
離れた有希子は、気持ちの中でどうしても赤い目が渦巻き、妙な衝撃となって残った。錯覚だ、気概を入れて部屋へ戻り、時間に追われるように、着物の上から紫色の雨コートを着た。
玄関先で、今や幻となりそうな貴重な自慢の和傘、三島傘を手にした有希子は、社務所へ出掛けて行った。
会合は、前回までに決めた要綱を実行することで全員が聞き入れて、時間を要さなかった。向井署長を始め集う大方の者は、議題が解決すると、磯甚での食事会が待ち遠しく、ばかばかしい話題が飛びかいだした。
「東京で流行しているノーパン喫茶が、三島にもできないかね」
向井署長みずから冗談を言って笑う始末だ。
どうせ男の雑談で時間潰しの世間話になる。有希子は座敷の準備があるので、と先に席を立った。
外に出ると、雨は小降りで今にも止みそうだった。
午後六時。宴会の刻に合わせるよう、皆は磯甚へ移って来た。
参加者はのんびりした気分をはっきり出している。もはや祭りのことなど吹き飛び、めいめいの酔い方で興じ振舞う。
地元の有力者である男性たちが、有希子には締まりなく映っていた。
自分の夫も、鰻横丁の寄り合い後、同じような挙措をしているのだろうと、いつもながら嫌気が駆け巡る。
女に節度がない伊三郎は、すぐ女性の尻を手でさわり、質が悪い噂が耳に入る。
それだけではない。目立って外泊の多い夫に、妾がいると悟って十年近くが経過していた。
店の経営は有希子任せで、昼間から何かと口実を設けては妾の家に行き泊まってくる。たまに在宅していても、すっかり乱酔気味で顔をくしゃくしゃにして寝込んでしまう。
こうなることは、結婚を決めたときに納得していたはずだ。
まして有希子は、伊三郎がぼんぼん育ちだから、仕方がないと幾度となく自分自身に言い聞かせて暮らしてきた。
わかっていても、もしかしたらいつか直ると考えてしまう。それが人だ。でも人にはどうにもならない運命がある。
自分の人生の成行きが読めたと諦めようとするたび、有希子は口が渇き唾さえ飲めない。
この姿が、歴史のある鰻料亭の主、社長の姿態なのかと、いつもがっかりし悔しい思いをさせられてきた。
文久二年、三嶋大社の近傍で、すでに安政から創業する鰻料理店に対抗すべく磯甚も創業した、いわゆる老舗である。
藁葺き造りの磯甚の正面玄関を入ると、左がテーブル席の鰻屋、右に引き戸があり、扉を開けると意匠を凝らした庭園が閑静に佇まい、古びた木造の鰻料亭が建っている。
料亭内の座敷に沿う廊下の突き当たりに族へ続く板戸があり、来客がこの戸を手洗いと間違え手を添えるが、堅く閉ざされている。いつからか、磯甚には開かずの扉があり、女将に気に入られると扉の中へ誘われると噂が広まっていた。
「おーい。背の高い、着物を着こなしている美人で上品な女将」
「はいはい。どうしたのですか、自治会長さん」
「わたしの愛する女将は博多人形だ。それに三島で一番の女将だ」
また男の口説き文句だと、有希子はつまらなく感じるが、これも商売だと諦めて相手になる。
「お世辞がお上手ですこと」
「なぁ、女将。そこでだ、三島で一番の女将、扉の中へ、わたしを連れ込んでくれ」
トイレに立った折、また自治会長は扉に騙されたのだろう。
「扉の奥に隠れて、女将と密事がしたい」
「何を言っているのですか、昨年も、しましたよね? 会長」
会長へ洒落っ気をかえしたとき、場の雰囲気を潰す声が響いた。
「私には明日がある。ここで退席する」
張りのある高い声で、つまらぬ会話を一刀両断で断ち切った。
酔い潰れている様子もなく、見るからに堅物で、向井の対面に座っている、交通課課長の芳原だ。
これを切っ掛けに何人かが場の空気を感知し、お開きとなった。
芳原のように帰宅する者と、行き付けの飲み屋へ行く者とに分かれ、磯甚をめいめいが散っていった。
向井が店を出るとき、自分一人になるのを見計らい、それでも周囲を用心し近寄ると、そっと有希子に耳打ちした。
「女将、幾らぐらいに」
「はいはい。署長、勘定はすでにしております」
有希子はかしこまって向井に領収書を手渡した。
「一人、五千円以下の予算だから。よし、判った。祭りは市民の手助け無しには上手くいかない。事故でも起これば大変だからなぁ」
有希子は気弱に憂色を深めた。向井は豪快な笑いをして見せた。
「成功するためには、これくらいの持て成しは、うん、必要だ。そのために交通課の芳原を連れてきたのだから」
これでよし、と云わんばかりに頷くと、にんまり唇を曲げ、
「じゃ、また、よろしく」
そう言って愉快そうに、店を去った。
有希子は向井に手渡した領収書記載金額を、郵便局で出金した現金から、六万六千円をレジに入れた。
向井は署に戻り、受け取った領収書の記載金額を、立替え払いをしたと会計に提出する。会計から同額の現金を受け取りポケットへしまう。磯甚の売上額も現金と齟齬をきたすことはない。
向井が署長に就いた時期に、この作戦を提案された。
夫の限度の越えたおんな遊びに殺意すら覚えていた有希子も、何事かのときに役立つと、秘密裏に一存し受け入れた。
だから、この事実を知るのは有希子と、それに向井だけだった。
②
三嶋大社も、夏の終わりの気配をはらんだ鈍い太陽の光を浴び、もうそこまで秋が来ている。
昭和五十九年。
今年は流鏑馬が復興され、磯甚辺りも以前の祭りより栄えた。
例年より草臥れ、心が萎える有希子は、コーヒーを嗜み、ウエスト・サイド物語のLPレコードへ耳を傾けながら、赤いポストのレプリカへ、気抜けしてぼんやりと視線を投げている。
いつのまにか学生の頃、そして最後の独身生活の懐かしく残る面影が、脳裏を駆け巡り懐旧へ誘われていった。
刻刻と、あの頃の有希子へ、ませた乙女心の有希子が浮き彫りになって、脳裏に姿を現した。
初恋の人と結婚を望んだ。そんな夢が叶わなくても、彼の子供だけは欲しい。願望となって憧れを抱いていた女子時代。
その頃も、これは理不尽なこと、愚かしいことと思う。
でも、彼の子を授かれば、彼への愛が薄れることなく、永遠に守ってゆける。
そうなれば、自分の人生の中で、彼との愛だけはどこにも逃げないで生き続けられるでしょう。
それは彼と共に生きている証になるに違いない。
あぁ、こうしたい。こうして生きたい。
こんな人生をむさぼりだすと、理不尽さ、愚かしさに、もう我慢ができなくなってきます。
だれにも発覚しなければ、私だけの秘密ごとにすれば、万事がうまくゆくはずです。
このためには、どうすれば実現できるのでしょう。
有希子はこんなに恐ろしい妄想に浸っていた若き頃へ、いつしか放心してしまっていた。
現実に戻したのは、伊三郎にそっくりな太い眉毛と肥った体、幼い顔付きの中学三年生・次男の三希生が、ただならぬ様子で部屋へ飛び込み、いきなりに力説をしたときだった。
「母さん、僕ね、血液型、O型だよ」
発せられた血液型の言葉がやけに響き、初恋の人と結婚相手も同型の人が好い。そんな憧憬に拘泥していた時期が頭上を掠めた。
O型同士のあいだに生まれる子供は、O型しか生まれない。
小学校を卒業するとき、すでに認識していた有希子は、胸の辺りに突っ掛かるものが触れたが、それでも動揺はしなかった。
「三希生、どうして、わかったの?」
「ね、ねぇ。兄貴は何型?」
屈託のない顔で、有希子の問い掛けを無視して訊ねた。
「浩三兄ちゃんも、O型よ」
「そう。じゃさ、ママは?」
有希子の胸にある突っ掛かりが、じゎぁつと広がった。
「Oですよ」
「そう。じゃ、パパは?」
詰まる思いとは裏腹に、息子の矢継ぎ早の質問へ、有希子は落ち着きを払っていた。
「父さんもO型です。急に、どうしたの、三希生」
彼が質問した血液型にためらいもなく応じ、胸に突っ掛かっていたものが、胃から腸へ流れ落ちた。
「うーん。何にもない。遊びに行ってくる」
そそくさと部屋を飛び出し、階段へ小走りする。
伊三郎がO型であると確証を得たとき、もしも結婚式の前に別れた恋人と再会して子を授かっても……、
女として夢を見た昔が再度よぎり、ぼんやりと息子が階段を駆け下りる音を聞いていた。
せわしい瞬間が過ぎ、有希子は感覚的に時計へ目を流した。
ほくそ笑む気持ちを自覚して、今日も頑張るか、と彼女は手元に置かれたエプロンを取り上げ、
よし! と小さく気炎を吐いた。
店内は昼間の片付けをすでに終え、夜の営業に備えていた。
有希子は店の者に、決まり通りの開店前の訓辞を済ませた。
それから得意先の東帝レーヨンの渡部に挨拶をさせようと伊三郎を探したが、見つからず、調理場で徳治を呼んだ。
「東帝レーヨン三島工場の渡部さまと、お連れさまのお部屋は?」
「へい、源氏の間で用意を」
「そう。徳さん、ところで社長の姿を見掛けないけれど」
「へい。鰻八の大将が迎えに来て、しのぶ、へ行くと。へい」
「まったく大切なお客さまなのに挨拶もしないなんて」
おおっぴらにむかっとくるのをぐっと抑え、
「渡部工場長が、お見えの時間だわ。徳さん。よろしく」
言い残し料亭へ向かおうとした。このとき店の玄関扉の風鈴が、勢いよく荒い音を立てた。
有希子に似通う背丈のいでたちで、自尊心が高そうな態度の高校三年生の長男・浩三が、大股の早足で調理場へ進んできた。
「おふくろ、模擬試験のお金」
浩三は、あっさり云う。有希子は昨夜に用意を済ませてあった封筒を着物の袂から取り出し、
「はい」
と、浩三へ手渡すと、自分の腕を彼の肩にまわし、有希子は入口へ歩もうとした。
不快な顔を有希子へ向けると、背を向き直し母の手を払い落とした。鞄を手に制服姿の浩三は、玄関扉の前で
「予備校へ急がないと」
いくらか緊急を要する言い方だが、動作は冷静に掛け出した。
有希子は、店の入口に立って見送った。
陽は西で翳って、涼しい風が頬を撫で吹いてくる。もうじき、一度目の金木犀の花の香りが漂い楽しませてくれるだろう。
そんな気がして、三嶋大社の方向へ目を流した有希子は、こちらへ歩いてくる二人の男性を即座に捉えた。
一人が渡部と見定めて、片手を挙げ左右に振った。
渡部も手を振りかえしながら、歩調を速め店へやってきた。
「有希子さん、今、駆けて行ったのは」
「長男の浩三です」
「やっぱり、そうですか」
渡部は頬を手で撫でながら、浩三が走り去った方角を見た。頬から手を外し振り返ると、思わず話した。
「あっ、そうだ。おととい、行き付けのスナックしのぶ、で徳治さんと会い、一緒しました」
「あら、そでしたの、徳治は何も」
有希子は演技的に鋭く睨みつける目を、一度してみせると、
「さあ、ご案内いたします」
部屋に入ると、床の間を背に男が、むかいに渡部が、有希子は卓の縁に座った。
「葛原、こちらが老舗磯甚の女将、有希子さんだ」
「おまえが、よく話している」
「そうだ。こいつが、僕の親友の葛原。こいつとは学生から同じワンダーフォーゲル部で、それ以来の腐れ縁だなぁ」
紹介され、有希子も葛原も姿勢を正すと腰を折った。
仲居が料理を運んできて、卓に並べると部屋を出て行った。
「さぁ、まずは葛原さん」
有希子は婉然たる笑みを見せ、二人へ酒を注いだ。
酒を口に含むと、眼鏡越しに視線をはずさない葛原が、
「渡部とは、大津の東帝レーヨン瀬田工場からの知り合いとか」
渡部は急ぎぐっと酒を飲み、前のめりに態勢を取ると、出しゃばって話し出した。
「瀬田工場勤務のときからだ。有希子さんは、琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川沿いで、鰻を軸に川魚料亭の老舗、瀬田舟の娘さんだ」
「その節も、今もご贔屓にしていただき、ありがとうございます。それはそうと、お二人は同じ会社ですか」
「いや、違う。こいつは複雑な遺伝子を勉強して、今も大学に残り研究している、と言うか、大学院の教授さまだ」
「葛原さんは、賢い方ですね。お偉い人ですわ」
有希子は両方の手の平を胸の辺りで合せ、微笑みかけた。
「こいつは頭がいい勉強家だ。それに比べ僕なんか、職場も仕事内容もたらいまわしにされている、どうしょうもない男だ」
葛原は叱りつけるような言い回しで喋りだした。
「渡部、何を言っている。四十歳半ばして大企業、東帝レーヨンの工場長だから、たいしたものだ。そうでしょう? 女将」
有希子は上半身を前後に弱く揺らして聞いていたが、合掌する手を唇の前で解いた。
「ええ。お二人ともご立派です。私は何だか嬉しく想いますわ」
眼鏡の片縁を握り、葛原はじっと彼女を観察していた。
「それはそうと、渡部は昔、女将のことを」
いきなりに葛原が質すと、渡部は左手人差し指を彼へ示し、睨み付けた。
「何を言い出す」
この拍子に、右手の箸で摘んだ鰻を口へ持っていこうとしていたが落してしまう。
「渡部、いいだろうよ。もう時効だ」
くつくつとする有希子は得意顔で胸をそらす葛原へ体を改めた。
「なんです? 知りたいわ」
「渡部は、あなたと結婚がしたかったのです」
有希子は予期せぬ解答に、ひどくふためき銚子を葛原へ差し向けた。
渡部は心穏やかになれず、血相をかえて声を荒げた。
「こいつ、バカなことを。有希子さんはなぁ、熱烈に好きな彼氏がいたのだ。大学卒業と同時に、彼と結婚をすると親に申し出たが、鰻やの娘は鰻やと結ばれるのが伝統だ、と猛烈に反対されて諦め、この磯甚の旦那と結婚したのだ」
年甲斐もなくうろたえ、早口で喋る渡部の額に汗が光る。
有希子はうっすら笑い出しそうになり体を屈めた。
葛原ははずした眼鏡をテーブルに置き、腕組みをして不審がる。
「古めかしい話だ。なぜ滋賀の瀬田と静岡の三島なのだ」
渡部は有希子の初恋の人、小野寺を知っている。任せておけば話がこじれると懼れた彼女は、本音で事実を解き明かそう、そう思い立ち、はっきりした口調で語りだした。
「ええ、大津と三島では離れすぎます。磯甚のお父様は全国鰻料亭協会の理事でしたの。私の父も理事で、磯甚が改築する折、客室の九つの部屋に近江八景の透かし彫りの欄間を贈るほど、仲が良かったようです。つまり、親同士が決めた結婚でしたの」
「ふぅうん、なるほど、この欄間がそうか。瀬田舟も、明治二年創業の老舗だ。有希子さんだけじゃない。お姉さんも、遠く鹿児島の鰻料亭へ嫁いでいるのだから」
汗が滲む額を拭った渡部は、空笑いのまま背筋をのばし欄間をつかのま仰ぎ、騒ぎが静まったと得心して体勢を崩した。
「それにしても、大社の門前町とし、又宿場町として繁栄したのは昔のことで、今じゃ三島は古臭い田舎町だ。残る古い因習とかで、嫁いだときは大変だっただろうな」
渡部は感心しているのか、褒めているのか、はたまた慰めている積りなのか、だれにともなく呟いた。
「いいえ。瀬田の町も古くからの風習が多くて、さほど苦になることはありません。私は日大卒で、教養課程のあいだは磯甚で間借りをしておりましたから」
葛原はまるで興味が失せてしまったのか、再び眼鏡を掛け、鰻を食しては少しばかり酒を飲んでいた。
「ところで、この鰻、臭みもなく、程よく脂が乗り、うまいよ。遺伝子的に特殊なことがあるのかな?」
葛原は箸で鰻の身を切り開いては咀嚼し、まじまじと眺めては味わっている。
「そんなことを考えるのは、おまえだけだ。こいつは、何でも遺伝子、遺伝子と。いやな奴だ」
なんでも遺伝子で処理をしようとしてしまう神経がしれなと、渡部は詰った。
葛原の怒ったような視線がむけられたが、突っぱねるように、
「三島うなぎはなぁ」
と、渡部は誇らしげに言い切ると、解説口調に切り替え説明をしだした。
「富士山の伏流水で一週間ほどさらされる。結果、泥臭さや余分な脂が抜け、ふっくらとした味わいが出て美味なのだ。わかったか」
「いや、三島うなぎ独特のDNAが有るのかと、思っただけだよ」
上手そうに鰻を口に頬張る葛原へ、渡部は耳慣れない単語に無様に口を開け、直視する。
やがて、有希子へちらっと目をやると、彼に説明を求めた。
「DNA? 何だ、それは」
「デオキシリボ核酸の省略で」
「単語じゃなく、少し具体的に」
「あぁ。ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックが、もともと遺伝子の本体はDNAで、その二重らせん構造を、この二人が明らかにしたことによって、急速に進展した。アレック・ジェフェリーズによって、もう、すでに、DNAで個人の特定ができるようになっている」
「どう言うことだ」
渡部は咄嗟に口をつく。解釈がつかない有希子は、判然としないまま葛原をじっと静観し話の続きを待っていた。
「うん、そうだなぁ。髪の毛一本で親子関係や兄弟関係が特定できるかな。つまり、血縁関係がはっきりすると云うことかな」
葛原は得意満面に顔をほころばし、豪語して見せる。
渡部は手酌をしながら、
「迂闊なことで子供なんか産めない。自分の子供じゃない、と争い出す夫婦が出るかもしれない」
ぶつくさと語り、恥じらい気味に失笑し有希子へ目を流した。視線を感じた有希子は、
「浮気なんかして、子供ができると、それこそ大事件ですわよね」頓狂な声をあげ精一杯に冗談っぽく言ったが、内心、親子でDNAがわかれば、破滅する臭いを感じ取っていた。
有希子は渡部が小野寺のことをどこまで知っているのか、ふと心に恐れを抱きつつ、二人に酌を勧めていた。
閉店後、DNAの単語が奇妙に耳に響き残る有希子だが、板場の片づけをする徳治の傍に立って、
「おととい、しのぶで渡部さんと一緒に飲んだの?」
渡部の話を確かめようと言い寄ったとき、
「後片付け、手伝うか」
と、うしろめたいのか、珍しく正気な様相で伊三郎が調理場へ入ってきた。
有希子は咄嗟の伊三郎の行動に、よろめき調理台に手を着いてしまう。
徳治も驚いて、ぱっちり目を大きく開いて立ち尽くしたが、
二人をやっと捕まえた。こんな機会はめったにないとばかり、割烹着を脱いだ。
「おぉ、ちょうどいい機会です。へい、大将も一緒に」
真剣に叫び、何か覚悟を決めているのか、
「ちょっとの時間、座敷に、へい」
内部に潜む決意の現われか、力を込めて言うと、見慣れない厳しい表情をあらわにした。
伊三郎と有希子は、今まで一度も見たこともない徳治の顔に引き込まれ、誘引されるまま料亭の座敷に座った。
その瞬間、間髪を容れず、徳治は本気の眼差しで喋りだした。
「世間はオシンドロームと言うが、板前という奴は、腕が立てば独立したがる。そんな奴が増え、へい、腕の良い板前を雇い入れるのは、これからますます困難になります」
徳治は腕組みをして首を振ると、話を切らずに続けた。
「この先、磯甚の暖簾を守ってゆくには、そうですなぁ」
腕組みをしたまま、目を閉じた。見開くと再び繋ぐ。
「なぁーに三希生坊ちゃんが板場を、浩三坊ちゃんが経営を、これが一番です。へい」
と、その場で力強く説くと満足そうに目尻を下げた。
日頃から徳治の腕前に敬服する伊三郎は、説得に何の抵抗も示さず、あまりにも簡単に快諾してしまった。
有希子は拍子抜けこそしたが、そうなれば伊三郎が居なくても息子たちと安心して滑稽に暮らしてゆける。
そう、そうだったの。
わざわざ徳治が、そう示唆を与えてくれたのね。
そうすっかり信じ込んでしまう。
こう意志を固めると、都合よく真意を汲み取り、有希子も同意してしまった。
明けて六十年三月。
三希生は中学卒業と同時に、有希子の兄の紹介で京都の老舗料理旅館へ修業に、浩三は高校を卒業すると東京の大学へ入学し、二人は同じ時期に家を出て行った。
子供と離れ離れの生活を余儀無くされ、母親の生き甲斐が薄れる有希子は、心がからっぽで虚しい日日を送りながら、DNAがどこまで進展しているのか興味が湧いたり臆病になったりもしていた。
③
そして月日が流れ、三嶋大社の金木犀が咲き、風に乗って芳香が漂ってくる。
そんなある日。
ふざけているのか本気なのか、典子の悲しげな声が、受話器の向こうでした。
「ついに、うちらの夫婦も、家庭内離婚になったわ」
「べつに善いじゃない。典子、もう四十二よ。私なんか、すでに離婚しているようなものよ」
「有希は、そうやった」
思いついたように納得すると、殺していた息をおもいきり吐いた典子が、
「同窓会が再来週あるさかい、気晴らしに出席しよし」
命令調子で強制的に誘ってきた。
子供がいない家で、くよくよ暮らしても気が晴れない。気分転換には良いチャンスに違いない。
迷うことなく有希子は出席を決めた。
急ぎあつらえた薄紅色のワンピースを着込んで、新幹線の時間に合わせ部屋を飛び出した。
待ち受けるかのよう徳治が、つかつかと有希子に足を寄せて来る。
「どうかして?」
「へい、大将が出掛けて、今晩は帰れないから……」
「どういうことなの、ねぇ。夕べ、主人と約束をしたのよ」
有希子は少しのあいだ頭を捻った。
一泊旅行をする私への嫌がらせなの、はたまた邪魔をする気。
昨晩はたまたま自宅にいて、理解ある態度を示してくれたのに。
ああ、本気で伊三郎とは別れたい。
もう、死んでこの世から居なくなればいい。
有希子は心の中でヒステリックに叫んだ。
「わかりました。明日は定休日だから、今晩だけ、何とか、お願いします。私も、一度ぐらい好き勝手をさせてもらいます」
強く諭す口調で申し付け、下唇を噛み憮然たる表情をした。
同窓会に弾む有希子の心は、新幹線こだま号に乗っていた。列車が瀬田川に差し掛かると、昔を偲ぶ風景が窓を通り越す。
中学生のとき、夏の瀬田川で、典子やあこがれの彼と数人で、岸辺に止められた和船から川へ飛び込んで泳いだり、蜆を取ってはしゃいだりし、船主に叱られたこと。
高校生のとき、秋の瀬田川辺で、彼と将来の夢を夜遅くまで語らったこと。
東京の大学へ出発する日、川の畔で彼と初めての口づけを交わしたこと、などが、つぎつぎと陰影に富んで列車の窓に映っては通過した。
ほどなく京都駅に到着。
東海道本線上りに乗り換え、後戻りするように、典子との待ち合わせた大津駅前の喫茶店へと足を速めた。
「有希、出席するのは何十年ぶりや。ようきたなぁ、うち、ほんまに嬉しいわ」
典子は冷めたコーヒーを一口飲んで、
「それになぁ、有希。今日は三嶋大社の金木犀やで」
三嶋大社の金木犀?
有希子はいちど首を傾げたが、典子と大社を散策したとき、彼女がさらっと言い残したのを思い起こした。
―この金木犀みたいに、二度咲けたら、ほんまの青春やで
有希子は、中学時代の青春を懐古し、感傷にひたりかけていた。
先程から落ち着きのない典子は、いきなりせわしく両手を振って立ち上がった。
「小野寺浩之君。こっちや、こっち」
思わぬ名前に有希子は、胸中がそわそわ揺れ動き、姿を確かめたいが、勇気が沸かずに項垂れてしまう。
じんわり心痛が起こりそうになった。
喫茶店の店員が注文を聞きに来た。典子は、
「あんたら、コーヒーでええやろう。ほな、二つたのみます」
勝手に決めて返事をしてしまう。
しばらくの静寂に、俯いたままの有希子は口が乾き、緊張を膨らませた。
やがて飲み物が運ばれてきた。
有希子も小野寺もすぐに、コーヒーを口へ持っていく。
数分が経っているのに、小野寺がとんまな質問をしてきた。
「桐山。どうして、ここに居るのだ」
場面に馴染めない小野寺の声が、有希子の耳には遠い。
「あんたら、何年目の再会や。有希が結婚を決めたときからか?」
小野寺は誘導されて、すぐさま反応した。
「桐山の結婚式、その一ヶ月と二週前。そうだよな?」
有希子は無言のまま、首を下に振った。そんなに具体的に言う必要などないのに。
昔から神経の使い場を上手く整えて言うことができない浩之が、かわっていない。
「そうか。そんなら、長いこと会ってないのやなぁ。ほんまやったら、あんたら二人は結婚してもかまへんのに。しゃあないなぁ」
典子の突飛な受け答えに、有希子は脳裏から消えかかっていた追憶へ引き込まれ、目を瞑った。
中学生のとき憧れ、社会人になって結婚を意識したが、無理だと判断し離別した十年近くのあいだより、今日の再会までの期間の方がずっと長い年月が経っている。
もう二十年以上前のことだ。
そう考え及び、浩之と過ごした昔の景色が、ぼんやりかすみ、有希子は固唾を呑んだ。
わずかなあいだ回想に耽っていたが、やがて自然に往時を優しく剥がすように、おそるおそる瞼を開けた。
目の前に小野寺がうっすらと見えてくる。
その感動に声にならぬ溜息を漏らすと、ゆっくりと戸惑いが納まり、彼を一瞥した。
すると、別れたあとの現在のことが知りたい心境にはまり、小さな声で有希子は質した。
「ねぇ小野寺……、浩之は、今、何をしているの」
「僕か。小さな広告代理店を立ち上げ、なんとか食っている」
老練した喋りで、世慣れした態度の小野寺に、有希子はどう対応すればよいのかまごつきもあったが、こっけいにも感じて刮目してしまう。
高校のときに、僕は会社経営がしたい。大学に入ると広告会社を立ち上げ社長になる。
浩之は常に夢物語を口にしていた。
だから、君のことは好きだけど、結婚するのは成功してからの話だ。互いが結婚を意識したとき、きっぱり断言した。
その頃の有希子は、親の反対を押し切っても、小野寺と駆け落ちをする情熱が滾っていた。でも彼は会社の立ち上げに夢中で、その気がない。いつまで待てばよいのか、望みも持てない。
ならば親の勧めに抵抗するより、姉と同じよう言い成りの結婚をしょう。親の祝福を受けるのも結婚の条件だ、と戒めた。
しかし、結婚式が近づくに連れ有希子は、愛を犠牲にすれば後悔が胸を焦がす。
いや時間は瞬く間に過ぎ、愛なんて心の底に沈んで埋もれてしまい、あっさり忘却する。
峻別する心の選択に有希子は迷い、浩之の心を再度掴みたい欲情に駆られたり、耐えたり、悶悶と過ごしていたあの日へ、苦悩していた青春時代へ……、
小野寺を正視する有希子は、馳せていた。
それにしても驚いた。
浩之は人生の願望をちゃんと成し遂げて生きている。
そんな初恋の人と、母親になり熟した女性として、いや彼へ思慕する哀れな女が、浩之と再会をしている。
この現実に有希子は、自分を憐憫する情が沁みてきた。
有希子は心情を隠して、
「子供は?」
いるの、いないの、確かめるように小声でうながした。
「まだだ。四十歳になった一昨年に結婚をした。しかも相手は年上だし、子供は諦めているよ」
小野寺はどこか冷めた低い声で言った。
「そう……。でもさ、浩之。願い望んでいたとおりに夢が叶って、良かったわよねぇ」
「まあな。でもこれからが、大変だよ」
「あんたら久しぶりやし、積る思いもあるやろうし、ここでゆっくり話しとき。うちはなぁ、同窓会の幹事や、先に行くわ」
言い残し、典子は慌しく席を立ち、せかせかと店を出て行った。
有希子は彼女に仕組まれた気もしたが、込み上げる情に喜びを感知し、目をくりくりさせて前の席に座る小野寺を見た。
指に挟んだ煙草を左右に振り喫煙を催促している彼と、どちらからともなく顔を見合わせ、苦笑いを浮かべた。
小野寺は首をななめに傾げ、ちょろと、ウィンクをした。煙草を吸ってもいいのか、と返事を求めているのだと気付き、有希子はにっこり笑みをかえし軽く会釈をした。
小野寺は旨そうに煙草の煙を吐き出した。
有希子は両肩を首へやや縮こませ、そっと彼を覗き込み、揺れ動く記憶のページを開き訊ねた。
「浩之、ウエスト・サイド物語を覚えている?」
「ああ、もちろん。二人で観た、ミュージカル映画だ。感動したぁ」
煙草の先で燃え尽きた灰を、ポンポンと指先で灰皿へ落とした。
「そう言うと、近頃僕は、長いこと映画館なんぞ行ってない」
映画館に行ったことは、どうでもよかった。
有希子はその帰りにレコード店に立ち寄り、バイト代が入ったとサウンド・トラック盤のLPレコードを初めてプレゼントしてくれたことを、忘れずに心に留めていて欲しかった。
今も持っているのか?
と、聞いてくれるのを待ち望んでいた。
有希子は念を押すように、
「忘れたの?」
「なにを!」
不服そうな顔をした小野寺は、短く減った煙草を灰皿で、強く揉み消し、また新たな煙草を銜えた。
旨そうに幾度も煙を吹かしながら、若き往時を追懐させているようだ。
「ああぁ」
うろ覚えの底に残った何かを搾り出し、小野寺が声を放した。
「どうなの、どんなことを思い出したの!」
有希子は、何をよみがえらせたの、早く話して、というように急かせた。
小野寺は指で挟んだ煙草を持つ右手を顎にやり、目を細め、
「でも、今となっては、意味がないような気がする」
そう、さらっと言って、煙草を口に銜えた。
「いいわよ。どんなことなの」
有希子は腰をくねらせ小野寺へ顔を近づける。小野寺は、テーブルに肘を付き、銜えていた煙草を唇から離した。
「後悔しないために、忘れるために、変な理由で逢った最後の夜」
最後の夜。
彼女が自分に惚れていることを盾に、小野寺は有希子の胸中を推し測り、心をこじ開けながらつかつか迫った。
彼女の体も熟知している彼は、別れの口づけからおんなを引き出し、女性として満足させる。
有希子も忘れてはいない。
細身で白い肉体へ。人妻になる女性と行為に及んでいる感覚に痺れ、彼は激しくなる。
首を反らし太股から足首まで硬直させ、時折襲う痙攣と吐く喘ぎ声。
小野寺はこの最後の夜を髣髴させてしまった。
有希子は彼の思考を射抜けた気がして、気恥ずかしい顔をする。
「ばぁーか」
そう言って、椅子から少しお尻を滑らせ潜め、
「どうして、どうして今頃になって、そんな夜を。それに浩之、どんな光景を頭に描いているの。にやけた顔をして」
小野寺は煙草の灰をテーブルに落としてしまう。
なんとも面映ゆい有希子の汗顔を眺め、小さく笑うと腕時計へ視線を投げた。
「もう、同窓会が始まる時刻だ」
小野寺は、そろそろ会場へ向かうかどうか、確かめるように一回頷く。有希子は首を一度縦に振って相槌を打った。
返事がもらえたと頷く小野寺だが、屈託な顔付きで訊ねてきた。
「それはそうと、一緒に会場へ? なんだか、また噂になるのでは?」
期待する答えが胸の中を素通りした有希子は、なによ、つまらない人、と彼へ心の中で怒りをぶつけた。
がっかりしたはらいせか、
「当然、一緒でしょう。私はかまわない、噂なんか。平気です」
力んで口走った彼女は、むしろこんな時こそ昔に戻り、あれこれ根拠もなく言いふらされたい意中を表現したくなっていた。
喫茶店を出ると、有希子は小野寺の腕に自分の腕を絡ませ、頭を浩之の肩にあずけ、しとやかな女性を演じて歩いた。
年甲斐もない、軽薄な気もするが、十代に若やぐ自分を披露しているようで、有希子は面白くなって、くっくっと喉の奥で笑ってしまう。
あの時分、どれほどもどかしかっただろう。
女性に成熟していたその年齢の有希子は、本当にこうして街中を歩きたかった。でも世間の目がうるさいし、恥ずかしさのあまり、できなかった。小野寺もまた女の体に興味を引くが、みっともなくて手を繋ぐ勇気さえ持てないでいたとこの頃は思う。
「うん、かまへん、ええのや、これで」
言葉も故郷に戻り嬉しがる有希子は、中高時代に過ごした街で、愛しい小野寺と再会をしているのだ。
自然に心が躍り、人生の春を一人でたとえ、その時期へ惹かれ素直な心持ちを味わっていた。
琵琶湖が望め、京阪石場駅近傍の湖畔に建つ、まだ真新しいホテルが同窓会の会場だった。
同窓生が中学生時代へ年齢を縮めるのは、いとも簡単だった。
現在どこで、どのように生きていることより、あの頃どうした、どうだったのと、会話は過去のことで盛り上がった。
忘却が活きかえる歓談は、いつしか時間が進み、愉しいひとときが終った。
この夜、有希子は久方振りに兄の家族と酒を酌み交わし、そのまま実家に泊まった。
明くる日、三希生に一目会って、と考えていたが、兄に修行中は駄目だと教えられ、断念した。
しかも小野寺と帰りの列車ぐらい一緒にと願っていたが、それも叶わず、翌日の午後四時の新幹線で三島へ一人向かっていた。
どこへ嫁ぎどんな職業の人と結婚し、どんな暮らし向きをしていると興味を示さない小野寺が、車窓に移る景色の速さのように時が過ぎ、有希子は自分に対し醒めてしまったのだと実感した。
有希子は自身だけが抱え込んでいる小野寺への執着が、寂しく心に響いた。
これが、典子が言っていた、金木犀にたとえた青春なの、であるなら二度咲く必要などないは、と自暴自棄に陥る気がして情けなくなっていた。
やがて三島駅に到着する。
グリーン車の辺りに見慣れた男性が、若い女性と二人降り立っていた。男は伊三郎だ。所作で有希子にはすぐにわかった。
いまさら、なぜ、おんなと一緒に居るところに邂逅する。
打ち捨てておけば。自分に言い聞かせたが、無意識に尾行していた。
夫の放題なおこないに苦しみ耐え、有希子は勝手気ままに振舞う伊三郎の行動すべてを、いつしか自身の中で封印したはずだった。それなのに、目の前で目撃し、後を付けている自分が悔しかった。
スナックしのぶ、と記された小さな扉。
徳治も東帝レーヨンの渡部も飲みに行っている、そんな酒場のおんなと一緒に、扉の中へ伊三郎が消えた。
明白な証拠を得た有希子だが、空虚でしかなかった。
やっと磯甚に辿り着く。
店は休日のため閑散としている。
有希子は自分の部屋で足を広げて寛いでも、やはり夫の浮気をまのあたりにすると、憎悪の念が棘となり、なぜか胸へ突き刺さる。
もう我慢もここまで。夫など居なくていい。四年もすれば、子供と磯甚の経営ができる。子供たちと幸せな人生が拓ける。
その時期からは、邪魔をされたくありません。
伊三郎なんか死でもいいです。いや今にも殺したいばかりです。
夫に対する憎い情念がほとばしる有希子。
額へ握り締めた両手をあて、背中を丸く伏せる彼女の影が、机の電気スタンドの明かりで、襖に黒く映しだされていた。
④
昭和六十三年。
大例祭を終えた翌月の九月。天皇の病状が悪化し、世間は暗くなった。
昭和六十四年。
明けて三嶋大社の初詣の人影は少なく、静かに年を迎えた一月七日。
昭和天皇が崩御された。
夫に受ける屈辱にこらえ、胸に刺さった棘が、ときどき痛む。
年毎に心臓を目指し進む棘も、子供への愛を守るために抜いてはいけない。いや、どうしても抜けないわけがある。
もし抜けば、子供を苦しめてしまうだろう。守り通している愛も崩れるだろう。
こんな執念で有希子は、昭和から平成元年を迎えていた。
その三月。
今夜は息子たちが自宅へ戻ってくる。
そわそわする有希子は、昼過ぎ、階段に一番近い二階の居間を掃除していた。
居間に隣接する部屋から、背が低く肥った伊三郎が二日酔いの顔を顕に、居間にやってきて、座卓の前で胡坐をかいた。
「何時ごろ、息子たちは帰宅する」
「浩三は夕刻六時、それに三希生は夜八時。どうかしました?」
有希子は電気掃除機を手に佇んでいる。
「鰻八の敏が、交通事故に遭ってなぁ」
「それは、大事ですわね」
伊三郎は無言のまま首を上下に幾度か振った。
「どちらの病院に?」
「うん、実は、それで見舞ってやろうかと」
「そうしてあげてください」
伊三郎は両方の手のひらを机に置き、
「でぇ、見舞金を用立ててくれないか」
「えっ。そうですか……」
有希子は冷ややかな情態も無理に閉ざし、
「必要ですものね」
少し顔を綻ばせ、箪笥の引き出しから財布を取り、金を手渡し、
「いってらっしゃい。時間には、間に合わせてくださいね」
伊三郎は腰を上げ廊下へ。廊下で伊三郎と擦れ違う徳治の声が聴こえた。
「大将、お出掛けですか、へい。今日は坊ちゃん二人ともが、帰ってきますで。へい」
階下を降りる伊三郎の声は聞こえないが、徳治のそわついた声が大きくなってくる。
居間の入口襖の辺りで、まごつく板前の匂いに、有希子は何事なの、と、ふと思いがそこに至り立ち尽くした。
「女将。三希生坊ちゃまが、板場へ来ました」
「えっ。どういうこと?」
襖に近づき佇む有希子は、阿吽の阿の口で仁王立ち、驚きを隠せない。
「今夜の料理を手伝わせろよ、と、へい」
「何を言っているの、本当なの。私も板場へ行くわ」
徳治がのろい足をどたどたとさせ階段を下りてゆく。有希子は彼の背を、せっつきながら気を揉んでいた。
料理場に入ると、白い歯を覗かせ三希生が振り向いた。
「今日から、お袋。板場を手伝うよ」
あいかわらず一見幼い顔をしているが、包丁を持ち、唇をきっと噛み締め、まな板に向かう容姿は大胆さを秘めていた。
これが四年間一度も帰省せず、ひとえに板前の修業に励んできた証なのか。
「三希生。何を言っているのよ。あんたと言う人は、もう」
そう言う有希子の目には、おのずと涙が満ちてくる。
「まずは、仏壇へ挨拶をし、それから親に報告を……、もう」
割烹する手を動かし耳すら傾けない。
どうして最初に、私のとこへ来ないの。悲しい気持ちの欠片さえも消え去らない。
こんな行動をするのも、もしや伊三郎の、彼のDANが影響している。有希子は胸中穏やかになれなかった。
彼女の所作をじっと見詰める徳治が、心中を察してか、優しい言いかたで、
「女将。いいじゃないですか。意欲的で、ねぇ、坊ちゃん。今夜は下ごしらえを手伝ってくれますか」
人の気持ちを無視して、三希生に指示をだした徳治へ、有希子は不愉快に不機嫌で苦りきった顔を素早くやるが、いち早く執り成し顔を作った。
「仕様がないわね、もう。でも徳さん、その前にお仏壇だけには」
「へい、そうしてください」
気が進まない三希生だが、有希子に連れ立って仏間へ行った。
手を合わせる彼の後ろ姿越しに仏壇を見て、嫁いで来た頃の舅姑の厳しくも嫌みな家業教えが、有希子の胸に刺してきた。
伊三郎は掛替えのない独り息子で、磯甚の後継者。
それだけに育て方が寛大で放任していた。夫の失敗はすべて有希子の所為にして咎めてきた。
そのため夫は、仕事に励むわけでもなく、店の経営はほったらかし。その都度、舅は妻たる者がしっかり監督をすべしと、いずれ女将になることを口実に、私へ激怒をぶつけてきた。
有希子が唯一褒められたのは、結婚して、まもなく浩三を、男の子を授かったときだけだった。
これで磯河家は安泰だ。磯甚の伝統は続く。
ほんに有希子さんは立派な女将になれる。よくやった。祝宴だ。その後も、成長にあわせた子供の祝い事ごとに、親戚縁者を集め行事を催した。
三希生が誕生したときは、好かったと、一言だけだった。
仏壇のたゆたうローソクの炎を見詰め、有希子はしばらくのあいだ、その場にしゃがみ込み、脳裏を空っぽに、呆然と嫁いできたころを思い浮かべていた。
夕刻六時。
浩三が帰ってきた。
手軽な荷物で、身なりも学生風の姿に、有希子はどことなく杞憂してしまう。
心配な事柄を口にしたのは、浩三が仏壇をおがみ終え、晩酌を始めて気分が開放した頃だった。
浩三は上手そうに飲み干したビールグラスを座卓に置いた。有希子は彼の顔を見るでもなく、空いたグラスにビールを注ぎながら、気弱な物言いで質した。
「どうして荷物が少ないの、後程届くの」
「いや、東京で就職をした」
迷いのない醒めた目つきで答えた浩三に有希子は、闇へ引き寄せられるように戦慄く心がびくついた。
すべて子供の教育を私任せでいる伊三郎だから、かならず文句だけは述べるだろう。
推察する有希子は、伊三郎の小言が始動することを予見して、憤りを覚え、面倒になると考えてしまった。
「どうしてなの。磯甚はどうするの」
「僕は、料亭を経営する自信がない。店のほうは三希生に跡を継がせ、僕は広告業界で働きたいのだ。そこから応援をする」
「広告……」
……広告。いつぞや、どこかで間違いなく聞いた。
浩三の性格では、料亭の跡取りより自分の遣りたい道に進みたがるかもしれない。むしろ自分が決めた道で生きてゆくのが、彼にはあっているのかも知れない。
浩三が望む生き方には、かれに似て、そんな人生観が、そんなDNAが含まれているのかもしれない。
有希子は過去に幾度となく、秘密裏に思慮したことがあった。
日頃は世間体を気にして、泰然と寡黙な態度を取る浩三の気質。これもひょっとすると、かれのDNAの表れかも知れない。
有希子は、かねがねそう感じ取っていた。
それにしても、今夜は穏和によく話す。
有希子は遠慮なく闊達に質問をした。
「で、どの会社へ決まったの」
「大手は、みな落ちた。まだ新しい会社だが、これから伸びると思え、社長もやる気のある人だし、リベラという名の広告代理店だ」
浩三の話を親心で聞いているうち、有希子は感情が昂ぶり、顔を歪めてしまった。
会社の所在も社名も、歴史も社長名もみな同じ。
どうして、選りによって小野寺の会社に就職したの……。
有希子は会話の内容を、静かに冷静になって推し量った。
さいわい浩三が私の子だと小野寺に、社長小野寺が、私の昔の恋人だと浩三に、まだ、悟られてはいない。
だけど、これは悪夢だ。
この先何事かが起こる予感さえする。
有希子には、こころの揺らぎが伝わってくる。
なんとかしなければ、大事に到るまでに何とかしなければ。
そうだは、小野寺にも浩三にも知らせない。片意地を張っても、密意を自身の体の一角に固くしまい込もう。
瞬時に有希子は決意をした。
否定することもできず、答えを出すわけでもなく、話題も途切れ味気ない興ざめした空気が、間を置いた。
有希子は座卓に、ビールが一口ほど残っているコップを取って、飲もうとしたときだった。
「そうだ。あのさ?」
今までの話し方より大きな声で質す浩三へ、慌てて有希子は体勢を前のめりにした。
「ふしだらなみっともない親爺は、やはり今日も、いないじゃないか」
嫌忌の念を拭い去れない表情を顔に浮かべる浩三を、凝視した有希子の胸のうちに、彼には明らかに父親が疎ましい存在だったのだと、芽生えだした。
張り詰めた体がにわかに緩み、薄っすら嘆息を漏らし思い屈してしまう。
ひたすら自分に忠実に生きようとする浩三は、彼の中の父との大きい性格の違いを覚え、父親のいびつな生き方を、彼なりに隠忍してきたのだ。
あの夜の出来事も記憶から去らない。
三希生が板場修行の門出の日、大袈裟なほど体で喜びを伝え、金品を持たせ、浩三が大学へ出発する日、生意気な、と捨鉢に酒をくらった伊三郎の態度がはっきりと浮かんできた。
有希子は徳治の後押しがなければ、喧嘩になっていたに違いない情況を、いつまでも忘れることができない。
浩三にしてみると、伊三郎はもはや父親でなく、どこかの親爺さんになっている。
有希子は今までも二人の、争う立居振舞いに遭遇して強く印象づけられていたのだ。
この夜も、有希子は浩三と話をすればするだけ、伊三郎が腹立たしく思えてくる。
話しも尽き、子供たちは、昔のままに確保されている、それぞれ自分の部屋に戻っていった。
これからどうすればよい。
悩み苦しくなる有希子は、前途に暗澹とした思いがして、長い夜になると感じた。
有希子は、手入れの行き届いた自分の部屋でコーヒーを淹れ、机の明かりだけでウエスト・サイド物語の曲を聴き、赤いポストの貯金箱を眺めていた。
いつしか過去に呼び戻され、独自の境地に沈むうち、自身の気持ちを確かめたく目を伏せてしまう。
四年前の再会が、これ程までも女の哀情に帰し、浩之への愛着が明確に脳裏を襲い、私の思いの執心が溢れ出るものなのか。
小野寺を愛し、身を焼いたあの独身時代。彼の人生計画に乗れないで、身を引いてしまった悲しさがよみがえってくる。
今の彼は結婚をしています。
いまさら恋い慕っても、岡惚れに過ぎません。
でも私には、恋として、愛として、秘密になって残った種となるものが、いまも確実に息衝いています。
私の生き甲斐に、確固たる信念の不抜なものとして、現実に存在しているものがあります。
忘却することのない小野寺を、偲べば偲ぶほど、伊三郎に対する嫌悪の感情が募り、先の不安が有希子の胸に絡まり付いてきた。
二人の男へ持つ情念は、小野寺への哀愁と伊三郎への憎しみだけです。
私は早く二者択一をしなければ、このままの精神状態を維持して暮らしていても、必ずどこかで破裂してします。
胸に頑なに打ち込んだ、固守しなければならない秘密を、どのような方法で守り通せば暴露されないのでしょう。
有希子はそう苦慮すると、胸に刺さる棘がうずきだした。
もう我慢ができない。棘を抜いて、何もかもばらしてもよい。そうすれば、どれほど楽になるのだろう、
だめだ。伊三郎と別れるのはよいが、子供たちとの生活が崩れるのはいやだ。
葛藤が激しさを増しだし、眠ることのできない夜を、有希子は幾日も過ごしていた。
⑤
その日、寝入り端に電話が鳴った。
また典子から? 今ごろ何事なの、と有希子は飛び起きた。
それは違った。
伊三郎からだった。
虫唾が走る有希子だが、しかたなく呼び出しに応じ、スナックしのぶへ出向かう。
しのぶに着くやいなや、一本の傘で伊三郎と連れ添い、店を出る破目になった。
激しさを増す雨が降る、午前二時。
稀に走る車も雨音にかき消され、降りしきる雨のみが響く。
一つの音色だけが作る静寂は、不気味模様を際立てている。
白くもやる景色の中で、対面の歩行者へ指す信号が、細かく赤色にちりばめられ、有希子の目に鈍く射し込む。
後方にも、残り三つの横断歩道にも人影がない。信号待ちする車さえない。
胸に刺さった棘が、好機到来だ……と殺意を刺激する。
傘からはみ出し、びしょ濡れで泥酔して潰れる伊三郎が、全身を委ねてきた。重さに耐えかねた有希子は、ついに肩をよじる。
その瞬間、よろけて車道にはみ出す伊三郎の手を握り止めたが、彼が倒れ引く体重の力を支えきれず、有希子は手を離してしまう。
あわれ。
めったに走って来ない車道を、赤信号で待つ横断歩道目掛け、一台の車が直進してきた。
動かず転倒したままの伊三郎は轢かれた。
有希子は傘を手からずり落とし、声も上げずに漠然と倒れ動かない身体を眺めている。
それは、伊三郎。
ああぁぁ、息苦しい感覚が責めてくる。
瞬時に、事故を推察できる直感が有希子の背中を揺する。
それは天が与えてくれた好都合な運命だ。それは暗暗裏に人生の幸が運ばれてくる判断だ。
有希子には、そう聴こえる。
しかしこの事態に、それらも一瞬にして遠退く。
「誰か――」
有希子の叫ぶ大声も雨音に消える。
せわしく辺りを見回す有希子の視角の中に、反対側の歩道の角、信号機柱の下にある赤い四角いポストの上で睨む赤い目を捉えた。
誰だ、ぼやけて顔の輪郭さえ見えない。ただ赤い目だけに、めくらむ。
ああ、もしか、徳治の、赤鬼の真っ赤な目か、と記憶の淵から浮き上がるが、目くらましにあう。
怯え震える有希子。
雨水に流される鮮血が側溝へ落ちてゆく。
有希子は脅威に身を縮ませてしまった。
気が付くと、パトカーの赤いライトがくるくる回り、警察官が慌しく動き、誰一人居なかった交差点に人だかりができていた。
毛布のような布を肩に掛け、屈んでいる有希子の横で、あの無口な交通課の芳原課長が、精悍な面魂で立っていた。
「女将、大変なことになったなぁ」
芳原の高い声が鼓膜に伝わる。
震える体を踏ん張り、有希子は起き上がった。
「主人は、伊三郎は、どうなりましたか?」
不安と心配な面差しで訊ねると、転びそうになり、芳原課長の手首を握った。
「救急車で運ばれたが、すでに心肺停止状態だった」
有希子は、芳原の返答を耳にすると、視線を辺りに回し赤鬼の真っ赤な目を見つけようとした。
だが、人だかりの中からは探し出せなかった。
すっかり衰弱しきった男性が近づいてきて、深深と頭を下げた。
「もうしわけございません、できる限りのことは」
伊三郎を轢いた運転者だろう。
聞き取り難い言葉が途切れる。かわって甲走った調子の声が聞こえてくる。
「女将。現場検証はしておくから、明日、署へ。とりあえず、誰かに送らせるから気を確かにして、病院へ行ってください」
芳原が心苦しく説得をし、新しい手ぬぐいと布を渡してくれた。有希子は濡れた普段着のワンピースを手ぬぐいで払いながら、不可解な気持ちになる。
パトカーで病院に着くと霊安室へ案内された。
そこには向井署長が居た。
「おぉ。女将、とんでもないことになった」
そう言うなり、伊三郎の顔から白い布をはずした。
死体となって横たわる伊三郎を見ても、へんに冷静な態度でいられる有希子は、向井が猜疑を抱いてしまうと閃き、この場の雰囲気に合せ、わざと仕草をうろたえさせた。
「死んでしまったの、ね、ね、署長」
「ああ」
それでも有希子は、からっと笑ってしまいそうになる。
幾らなんでも、妻の立場で努めなければ、と脳が指示を下す。
すると有希子は、暗然たる面持ちで向井へ訊ねていた。
「私はこれから、どうすれば……」
何も考えないで唐突に言葉を切り出した有希子は、伊三郎が思う壺に填った感情を抑えることができなかった。
深く俯き、とりあえず涙顔をこしらえ、黙止しようと固めたが、どうしても向井が気になり、ときたま視線を投げてしまう。
「後のことは、わしに任せて心配するな」
ひとまず野太い声を落とした向井だが、有希子の挙動に不信感を持っているのか、訝るように喋りだした。
「ところで、どうしてあんな時刻に、あのような場所に大将と居たのだ」
「はい。深夜に突然電話をしてきて、タクシーが呼べない。傘を持ってすぐにスナックしのぶに来いと呼ばれ、店の者を叩き起し」
「しのぶ? うん、そうか。それであの場所へ」
「店の車で帰りましょう、と言ったのですが、たまには二人で土砂降りの中を歩こうと、それはしつこく催促をされました。店の者を先に帰らせ、私はしぶしぶ相合傘で歩きました」
思いがけない説明に向井は躊躇したが、眠る伊三郎へ静かに合掌すると、物静かに話しだした。
「わしがちゃんと責任もって処理するから。つまり、こんなことのために、女将には日頃からお世話になっていたのだから」
有希子の肩に、少し小刻みに揺れ動く手を置いた向井は、言い難そうに先を繋げた。
「女将が、大将を押したと言う者がおるのだが」
一瞬、有希子の心臓が萎縮した。
挫けてはいられない。ただちに気を取り直し、弁解なのか反駁なのか、肩にある向井の手を振り払い、力の限り論じかえした。
「誰がそんなことを。あの太い重い体を押してもびくともしませんわ」
締め泣きしそうだ。
「支えようと必死に、私はしました。でも、だめで……」
有希子は悲しいのではない。
手を離すときに、伊三郎の手を押し気味に突いた事実を、誰かに見られていたのなら、と忌々しさのあまり涙ぐんだのだ。
「そうだろう。女将のか弱い体力では、大将を支えきれないし、押してもびくともしないよな」
向井は一つ溜息を吐き、了解しているように何度も頷いてから、
「それにしても、わしが在任中でよかった。間に合ったよ」
言って妙に自信をもって強くかまえる向井は、あらわに自得している態度を取っていた。
が、それでも向井は、疑問符をおくびにも出せない物事が迫っているような気持ちにもなっていた。
そして、有希子を霊安室から廊下に連れ出し、ひとけのないことを確認すると、
「女将。芳原課長にも、話はつけてあるから、なんの心配もいらない。明日交通課における調書のとき、今話したように言いなさい」
内ポケットから煙草を口へ持ってゆき、思案顔をして煙草に火をつけると、ゆっくり煙を吐いた。
「女将、実は来月、わしは県警へ移動になる。そして、来年三月、定年退職だ。女将、これがわしの最後の仕事になった」
ひと息ついて、煙草をひと息吸うと、携帯灰皿へ捨てた。
「なぁーに心配はいらない。ながらくありがとう」
向井の胴間声が有希子の耳元で広がっていた。
⑥
何事もなく伊三郎の葬儀を済ませ、髪の毛一本すら彼にかかわる全てを有希子は処分をした。
常に脅かした胸中の棘も抜け落ちたと、にんまりする心境が続くが、どうしても、しばらくのあいだ浩三の態度行動が念頭を去らなかった。
一滴の涙も落とさず、仕事が多忙だと通夜だけで、葬儀には参列しないで帰ってしまった。
その後の忌にも参加しない彼が気掛かりで悲しく、悩みが胸へ押し寄せてきた。
浩三への気苦労を覆い隠すため、一人冷酒を飲むことで、日日を紛らわし、いつしか煙草も嗜むようになった。
酒に溺れるうちに有希子の心気は、辛苦を生き抜いた自信がみなぎり、おんなへの嫉妬から解放され、何より胸に刺さった棘が消えて、歓喜もほとばしるようになる。
知らぬ間に時は過ぎ、じんわりとそれらの気分に満たされ、有希子は愉快な刻をついやすようになっていた。
やがて浩三は、未亡人の母親を気遣い戻って来るようになり安堵できるし、三希生においては、料亭の切り盛りがしっくりして心丈夫に思う。
磯甚が休日のある夕刻。
最近のそんな心持を醸し出し、有希子は降る雨音を耳に、後悔もなく自由を得たと酔いしれていた。
ガラスの猪口へ冷酒を注ぐ。
ちょいと酒を啜り、軽く煙草を吹かす。
こんな繰り返しをしては、ちらっと有希子は外へ目を向けた。
「ああ……」
静かな雨、平穏な日日が続いていると心で堪能し、おのずから吐息を発する。
有希子が猪口を持ち上げたそのとき、
「女将。皆は出掛けて、あっしだけに」
いつ部屋に近寄ったのか、徳治が密かに声を掛けてきた。
「そう、しかたないでしょう。どうぞ」
平常心で、有希子は答えてしまう。
「へい。これ」
徳治は冷酒の瓶を持ち上げて、にっこり渡し彼女の前に座った。
「ところで、近頃の三希生はどうですか?」
徳治を見ながら有希子は、ガラス製のお銚子を勧めた。
「へい。さすが代代からの血を引いた坊ちゃまは、鰻料理を充分に修得され、立派な板前に。へい。あっしも安心して引退ができます」
「引退? どう言う意味ですか、徳さん」
「へい。もう、あっしも老齢で仕事がきつくなりました」
被せるように有希子は問い詰めた。
「幾つに?」
「あと一つで傘寿です」
「もう、そんなに、そうですか」
頬にほんのりと赤みがさす有希子は、燐寸で煙草に火を点け紫煙を燻らし、警戒心を片隅に追いやっていた。
手酌をする徳治は、彼女のすきに乗じて、いわくありげな顔つきで物言いを始めた。
「事故の日、大将がしのぶママに縁切りをされ、それで大酒を食らい、へい」
有希子は、そうだったの、と納得したように、猪口の冷酒を一気に音を立て飲み干した。
「実はあっしも、あの夜、女将が来る前にスナックしのぶへ呼び出されまして。へい。それに、女将が迎えに来て大将と一緒に店を出られた後、追うように、へい、あっしも、しのぶを出ました」
有希子は焦って体を乗り出し、それからと右の耳を徳治に向け、心奪われた。
灰皿からは煙草の煙が立っている。
「そして、あの事故に。へい、びっくりしました」
有希子は胃の辺りがぐるぐるする。苦痛が走りそうになった。
とりあえず手酌をしたが、徳治が何を言いたいのか落ち着かず、有希子は質した。
「それで……、事故の瞬間には、臨場していたの?」
徳治は、ちびちびとガラスの猪口を唇で噛んでは又唇にやり、目を赤らめている。
やはり思い違いではない。赤い目は徳治だった。
有希子の全身が怖気をふるう。
繋ぐ言葉が出ない。
灰皿の煙草を手に、せかせか吹かしては、猪口に残った酒を一気に飲み干した。
有希子の身じろぎを刮目していた徳治が、居心地悪そうに身震いさせた。
ちょっとのあいだ時間を稼ぐと、含蓄のある話なのか、有希子を凝視する顔を前へ突き出した。
「車が接近するタイミングで、へい。女将は大将の手を、くつがえし突き放しましたよね」
有希子は身動き一つできない。
「口が裂けても、へい。だれにも言いませんよ、女将。あっしは、あっしの胸に……、へい」
背筋に寒気が走り、ただ敬遠したい徳治を、唖然たる面持ちで睨み付けてしまった。
何気なく灰皿の煙草に手を添えて揉み消しながら、次第に徳治の厭な行為を連想してしまう。
耐え難い徳治の行為が脳裏で混乱し、勝手に思い煩う有希子は、竦んでしまった。
苦悶する彼女を余所目に、徳治はおもむろに酒を飲んだ。
「日頃から、へい。女将の苦労は、呑み込んでいます」
徳治の一笑に付する顔が、不愉快に脅かす。
有希子は思わず右手で口を覆って顔を項垂れた。
酌を勧めるためにうなじを上げると、ゆっくり徳治が口を動かし喋り始める。
「鰻と言う奴は、どこで産卵孵化して子を産むか、へい、いまだにわかりません。浩三坊ちゃまは大将を嫌っているし、それに鰻のように坊ちゃんが、いつ、どこで孵化したのか、へい」
鋭い目線を徳治へ向けた有希子は、何を知っているのよ、と怒鳴りたいのを押し殺し、首を斜めに傾げた。
手酌した徳治の手には、小さく見える猪口を少し持ち上げて、
「これまで幾人か見てきましたが、世の中には、へい、まれに鰻みたい解明されないように懐妊を隠す、そんな女性もいます。へい、まるで浩三坊ちゃんも……」
言いかけて噤んでしまい、猪口を唇に当てた。
有希子は深呼吸に似た息遣いをし、不快な目つきの徳治から顔を逃がした。
徳治は酒を飲み干すと急がず話を続けた。
「女将。なぁーに、もう古い話ですがね。へい、大将の血液型がO型でなければ、きっと結婚をしなかったでしょうに」
侮れない。
何もかも知っている。
打ち萎れる有希子の肝が、心臓が冷えあがる。
それでも、悠然と構えて徳治へ冷酒を注ごうとするが、零してしまう。
急いで煙草を銜えるが、逆さに燐寸の火を点け灰皿へ。
もう有希子は新たに煙草を銜え、ただあたふたしている。
「落着いてくださいよ、女将。今となっては、すべて、あっしの心の奥に秘めて他言はしません。あっしの胸に畳み、きっちり墓場へ持って行きますから、へい、安心してください」
喋りながら徳治は、卓を回り有希子の左側へ近寄る。
有希子は体をねじって、徳治から身を引いた。
あのときの赤鬼の真っ赤な目、有希子の真横にある。しかも、卑猥な目つきで私を追いかける。
ああ、子供のために、守らなければならないことがある。
媚びた態度を取ってでも、秘匿しなければならない。
そんなことは、わかっています。
でも、徳治とは、いやです。
ああ、この場を必死に抗議しなければ……。
「待って徳さん」
悲愴な嗄れ声を、有希子は上げてしまった。
「何を考えているのですか、女将。へい、手が届かないから側に。まずはゆっくり煙草を吸ってください」
上目遣いに、彼女の煙草に自分のライターで火を点け、元の位置へ戻りながら、
「それに浩三坊ちゃんは、すでに彼なりに……その店のポスターとかメニューや、へい、ときにはチラシと」
徳治は微笑むように目を細めて、有希子に語りかけた。
「店の広告を立派に作成して、へい、まったく磯甚の人間ですよ」
追い詰められているような精神の圧迫感が消え、拍子抜けの感を覚える有希子は、気まずい感情に支配されながら徳治へ傾聴した。
「あっしの人生は、この磯甚が、すべてです。引退しても荒波が立たないよう、へい。女将、辛いことは、あっしが持ってゆきますから、安心して、坊ちゃんらと生きてください。へい、これからも店と坊ちゃん、特に浩三坊ちゃんを守ってください」
唇をにやりとさせ徳治は、自嘲の笑いを漏らした。
有希子も苦笑いでかえした。
「それはそうと、へい。なにより、一度ぐらい冥土の土産に流鏑馬を一緒してくださいな」
「わかりましたよ、徳さん」
宥めるように返事をした有希子は、張り詰めた気持ちが消沈して俯き、黙黙と煙草を吸った。
幾度も吐く煙の匂いが二人を包み、漫然とした空気が、しばし部屋に漂っていた。
徳治の赤い目が、慈悲を垂れる目に思えてくる。
緊張に疲れた有希子は、ガラスの銚子を手に、たがいのガラスの猪口へ冷酒を注いだ。
「ありがとう、徳治さん」
「ご安心を。へい、女将」
徳治も猪口を持ち上げ、受けてくれた。
⑦
徳治の亡き後。
受け継いだ技量を発揮し、巧みに鰻を捌く三希生が、京料理もくわえ、創意工夫する創作料理で評判を取り、店の経営も順調に伸びている。
そのうえ東帝レーヨン関係のお客様や、浩三の手づるのお蔭で、客を切らさず凌げていた。
会社の業績も順調で、個人の活躍が評価され、若くして本部長に就いた剛胆な浩三は、三島夏祭りの時期と正月には帰省してくる。
それから一年ほどが過ぎたある月。
有希子は、磯甚の女将を呑気な三希生の嫁に任せ、自分は社長に就任した。
何事かが起こるわけでもなく、自由な時間を手に入れ気楽に過ごす有希子は、ほっそりとした体型も丸く肥り、老舗女社長の貫禄がでてきている。
そんなことを気に病むこともなく、呑気に構える有希子は、あいかわらず夜になると冷酒を嗜み、煙草を吹かし、ウエスト・サイド物語を聴いて楽しみ、奔放に生きていた。
一つの不満なく安穏に暮している、そんな暮らしのある日。
上目蓋を尖らせている典子が、思い描ける声で、
「有希、葉書の返信が、まだやで。どうするの?」
と、電話をしてきた。かいもく見当がつかない有希子は、
「何のこと。どうかして?」
打ちかえした。
「ほんまに。しっかりしいや、あんたは」
典子が驚いて、一度息をとめたのが有希子にはわかった。
「中学の修学旅行とおんなじ伊豆での同窓会や。当然、地元の有希は参加しなあかん」
同窓会に関しては、きまって命令してくる。有希子は思い巡らしたが、抵抗する気にもなれず、故郷の語で返答してみた。
「わかったわ、典子。ほな、よろしゅう頼みます」
「はい、はい」
おかしく笑いながら返事してくる典子に、有希子も、うふふと笑ってしまう。
「ええ、か、有希。まだ呆ける歳と違うで、ほんまに。ほな、申し込んでおくで」
一方的に電話が切れたのは、夏も終わりに近い頃だった。そして秋には、三嶋大社の金木犀がよい香りを遠方まで流していた。
有希子のこの一年も、取り立てて言うほどの変化もなく、静かに暮れていった。
典子に強制された同窓会の日。
昨夜は篠突く雨を思わせるほどに強く降っていた、その雨も上がり、明け方から日が差している。
有希子は爽やかな朝だ、とわくわく嬉しくなった。
今日、かつて中学校校舎が建っていた近傍の、大津駅前に集合した同級生が、バスを貸しきり伊豆へ向かってくる。
中学三年の春、伊豆半島へ修学旅行で来た再現企画である。
仕事や嫁ぎ先の関係で関東に住居を持つクラスメイトが数十名いるが、大半が関西在住で、修学旅行の気分を愉しんで、今夜の宿泊ホテルの大仁へ出発していた。
着物姿の有希子は、三島広小路駅前の料亭で鰻横丁組合の用事をこなし、料亭横の三石神社の源兵衛川に突き出た時の鐘がある櫓の下で一服した。
頃あいを見計らい、駅へ跳ねる心で足を速めた。
上り下り線共有の一つホームに列車が着く。
軽い足取りで乗車する。
あーぁ、もう一度、青春時代へ帰れる。弾んでいた胸の動悸が一変し、喜気が膨らんだ。
「どうして、浩之が?」
云うと前に立ち、座る小野寺を見下ろした。
彼をひと目みたときから、満面に喜悦の色を隠せない有希子へ、
「同窓会に決まっているだろう」
小野寺はどう言ってよいのかわからず、呆れた顔で小言のように
答えていた。
有希子が乗り込んできたとき、彼女の体型の変化に、眺めるでもなく、見てもよいものなのかと目を泳がせていた。
小野寺は彼女の余りにも変わった容姿に愕然としてしまったのだ。
「わかっています、そんなこと」
有希子は冷淡な視線を投げ返した。小野寺は、おぼつかない気持ちで目を怒らせて見せる。
控えることなく有希子は、すっと隣に腰を据えた。
「元宮がさあ、早めに来れば、と言うもので」
「典子は、大津からバスで来るのでは?」
「幹事の何人かが、元宮もだけど、前日からホテルに泊まって準備をしているらしい」
典子とは音信を取り合っている。有希子は少し訝ったが、そんなことはどうでもいい。久しぶりに又再会ができたのだから。
「そう。で、浩之は元気だった」
小野寺は、心ここにあらず表情で無言のまま、あらぬ方を見ていた。
有希子は彼を見ては、また窓越しの風景へ知らぬ風情のまま眺めている。
幾らかのあいだこの動作をくりかえしていた。
列車は三島二日町駅を通過する。
もじもじと尻込みをし、足が小刻みに動く小野寺が、どうしても何かが言いたいのだろうと、有希子は瀬踏みを試みた。
「浩之、どうかして」
小声で呼び掛けたとき、後の車両から、明らかに同級生の数人が前に立ちはだかった。
「久し振り。やっぱり、お前たち二人は結婚をしていたのか」
小野寺は、逸早く級友たちへ鋭い目で打ち消した。
「偶然に乗り合わせただけだ。結婚などしていない」
紺の背広を着こなしている小野寺が、仲間の揶揄に貫禄の対応をしている。
辣腕の男だ、と有希子は思え、いささか感動を覚えた。
大仁に着く。
温泉地にしては立ち並ぶ土産店もない。
鄙びた駅前だ。
周辺を見回す仲間たちも口にした。
駅前で待機していたホテルの送迎バスは、すぐに動き出した。車中で、有希子の着物姿が話題になって、会場に着くまでもなく同窓会が始まった。
「有希は、三島磯甚の女将さんよね。着物がよく似合っているわ」
女性のだれかが、声をかければ届く距離なのに、妬むような大声を張り上げた。
「桐山はさぁ、腹が出たのを着物で隠しているだけだ」
小野寺がぼそっと、わざとがましく周りに聴こえる声で呟いた。
「小野寺、そんなことを云ってもいいのか?」
「小野寺君の血液型は、たしかO型だったよね」
「だからか、そんな失礼なことが言えるのは」
車内の皆が相好を崩した。
有希子は、ばぁーか、それにあなたがO型だと心得ていますと、あかんべ、を小野寺にして見せた。
ホテルまでのみちすがら、バスが軒下にぶつかるぐらい狭く、ハンドル捌きの巧みさへ皆拍手を送り、修学旅行も盛り上がった。
ホテルのロビーに入ると、
「同じ送迎バスやった、そうか」
今にも倒れ掛かる足運びで、典子が急ぎ駆け寄ってきた。
「まだ大津組のバスが来てへん。一時間ぐらい遅れるそうなんや。あんたらどうする? 温泉が先か、それとも庭でも散歩するか」
「浩之、散歩したい」
有希子は間を置かないで答えた。
小野寺は踵をかえし、庭園へと記されたガラス戸へ進んでいた。
「有希」
早く行き、とばかり両手で追い払い、典子は微笑んだ。有希子は待って、と着物の裾をたくしあげ追いかけた。
正面に富士山が眺望でき、多彩な五月の花園に囲まれてベンチが設置してある。
二人は、はからずもそのベンチに座った。
小野寺は、青空になだらかな傾斜でそそり立つ、名峰富士の頂を遠望している。
有希子は彼の視線の先を辿っていた。
彼が大学に入学して以来、やっぱり富士山は日本一だ。僕は好きだ。と言っていたことを、ふっと懐かしく想起した。
時おり見合わせる二つの顔が極まり悪そうだ。
小野寺はポケットから煙草を出すと、幾度も盛んに吹かし、怪訝な顔を有希子へ何度も向けた。
彼が思い切り唾を呑み込む音が聞こえる。
「なに? どうかして?」
有希子は、嬉しそうに優しい笑みを浮かべる。
だんまりを決め込み小野寺は、辺りを見渡して煙草を吹かしている。
暖かな心地よい気候に、有希子は自身の気持ちを解放した気分でいた。
普段は自宅でしか吸うことのない煙草を、自然の中で吹かすと、どんな気持ちになるのだろう。
気持ちよさそうに煙草を吸う小野寺の身のこなしに、何気なく誘われた有希子は、
「私にも一本、いただけない?」
ひとつ咳払いをして要求した。
驚嘆する小野寺は一瞬首を彼女へ振り切った。
いつからだ、と問い質したいが、知ったところで、今になってどうなるものでもない。
戸惑いながらも煙草を手渡す。
薄紫の地に金糸で絵ぬきされ、藤の花の文様が織り込まれた着物を着こなし、薄紅色の唇から煙を吐く有希子に、小野寺は老熟した女の安穏無事な今の生活を垣間見た気がした。
思案する必要などなかった。
小野寺はつくづくそう思える。
遠慮なく追求をしても構わない。
手にしていた煙草を一度歯で噛み、指に挟んで離す小野寺は、導かれるように語気鋭く糺した。
「磯河浩三、つまり僕の会社の本部長磯河は、桐山の息子だよな」
不意の詰問に、落とした煙草が小野寺の足元へ転がる。
露顕している。
有希子に恐れが重く伸し掛かった。
息苦しい。
まさか……、発覚しているのは、私の息子ということだけ?
図星だ、と顎を突き出した小野寺は、苛立たしげに彼女が落とした煙草を足で踏み消し、自分のも消した。
それから眉間に縦の皺を一度寄せ、有希子へ体半分を回した。
「入社した頃から、社長になりたい。出世するには小さい会社のほうが早い、と彼は云う。それに努力を惜しまない頑張り屋だ。どこか僕の若いときに似ている」
有希子は、胸が圧迫され呼吸ができない。
胸がえぐられるような痛みも生じる。
もうだめです。
あばかれてしまいます。
打ち明けてしまえば、きっと楽になるでしょう。
脳裏の奥で広がりかけたが、唇に力を入れ沈黙する。
容赦なく小野寺の声は押し寄せてくる。
「彼の思考や行動が、僕に似通っている。それに、何となく顔立ちも。桐山、本当に気持ちが悪い。もしや、と疑うときがある」
有希子には、すでに雑音にしか聞こえない。
脈拍が妙な打ち方をする。喉のところまで、白状しろと言葉が勢いよく攻撃してくる。
小野寺の顔が、いつしか赤らめ、声は醜くひび割れ、彼は強い口調で迫る。
「どうなのだ? 本当は、あの最後の夜……、違うのか?」
何を疑っているの。
あなたは、おんなを知らなかっただけよ。
おんなは、最愛の人と別れるのならば、胸にしまい込む愛だけでは厭なの。
愛の感情は時間ともに薄れてゆき忘却するわ。
忘却している愛を呼び起こす機会が遭ったとしても、たとえ三嶋大社の金木犀のように二度咲いても、
愛情が咲いている時間は、そのときだけで、また散ってゆくの。
だから私は、散らない愛情を、忘却しない愛の形を選択したの、
あなたの、浩之の子を……、
おんなには、いつまでも消えることのない愛が作れるのよ。
なぜこの歳になって、あなたは疑うの?
混乱する有希子の脳裏で次ぎ次ぎと守り抜いた場面が、隠蔽した真相が、じわじわ蠢き出した。
伊三郎と婚約した日から、求められる夜の営みを安易に受けずにいた。だが、浩之の子供を身籠ったと自覚した夜から、子供が欲しいと、淫らな女に変身して求めた、よなよな。
その浩三の誕生が不可解に感じる夫を、血液型で説き伏せ、常に警戒心をはたらかせた、日ごと。
DNAで親子関係が判別できると教えられ、畏怖の念をかかえたときから、悪意に満ちた地獄が続いた。伊三郎さえ居なくなれば、子供たちも疑義を挟むことはない。だから、夫への殺意を張り巡らし、その機会を探し連ねた、日日。
浩三は浩之の子。
軽々に語りたくない秘密を、これまで必死に守った誇りを、今さら失いたくありません。
だから非情のままでいたいのです。
でも、この年の気力で隠しとおせる? この先いつまでも隠しとおせる、隠す必要があるの?
噛み締めた唇から、有希子が声に出したのは、
「そうーよ、あなたの子供よ」
と、嘘と真を覆うように……、ごまかすように……、冷笑を漏らしながら押し黙ってしまった。
真実を語る、虚偽を喋る。
有希子は切ないほど葛藤してしまう。
本音をばらしてどうにかなるの。
浩之を愛した女が産んだ、子供の物語だから許される。
そうよ、ここで打ち明けて、浩之を説得すれば……。
そう考えおよび、確固不抜の信念で意識を平静に取り戻せたはずの有希子だった。
だが、視線を小野寺へ振って、首を傾げ、着物の左の袂を右手で押さえ、吐き出した言葉は、
「ばぁーか。そんなこと、ないでしょう」
と、苦笑いしながら、袖から袂落しを出し、袋から煙草を一本口へ持っていった。
小野寺は彼女の煙草へライターの火を差し出すあいだ、冷静な態度で睨みつけていた。
有希子が煙草を吹かし始める。
その姿が白白しく映る小野寺は、昨夜の雨が嘘のように晴れ渡る空へ、視線を移した。
どこまでも青い空へ、気持ちをあずけた小野寺も、煙草を口に銜えて一服した。
「そうだよなぁ。もう五十歳も過ぎて。年甲斐もなく昂奮して」
小野寺はにっこり言い退けて、有希子へウインクを投げ、口から煙で輪を描いて見せた。
彼は気負いが抜けた顔つきになり、再び話しだした。
「近頃じゃ、DNAを調べれば、親子関係なんか、いとも簡単にわかるのに」
絡まっていたこだわりがなくなり、淡白な気分になる小野寺が、
「でもなぁ。調べることが……」
指で挟んだ煙草を持つ右手を顎にやり、目を細め、
「今となっては、意味がないような気がする」
そう、さらっとつなげた。
「そうね」
自嘲的な笑いの面持ちで有希子は、首を慌てず振った。
小野寺は黙って遠くの富士山頂を仰視して、黙って煙草を吸っている。
有希子は煙草が、間を持たす、ありがたいものだと、初めて気付きつつ、一服また一服と吹かしていた。
有希子はぼそっと暗鬼に駆られたように漏らした。
「浩之。私たち、あと何十年、生きていられるのでしょうね」
小野寺はただ黙して富士へ目を流している。
「そうよね、そんなに永くはないわよね。だから、知らないことは知らないままのほうが、それはそれでいいことよね」
そう言った有希子は、煙草の煙を空へおもいきり吐いた。
「ふぅん……」
と言う浩之は、
「知らないこと、うん。そうだなぁ。騙されているままのほうが、楽なことかも知れん」
と、煙草の煙を彼女の煙に吹き重ね、にっこり笑って言った。
「ところで級友から聞いた話だが、桐山は、繁盛している老舗鰻料亭で、今もご主人と伝統を守っている女将だって」
有希子は頷く。
そして再度静かに煙草の煙を吐き出す。
顔を掠めてゆく煙を見詰めていると、小野寺が言い切った、主人と伝統を守っている、という言葉が、彼女の頭脳をゆっくり包んできた。
無意識に煙を吐き出すと、伊三郎の通夜からの浩三の言動が、脳裏で騒ぐことなく動き始めた。
そうだったのね。
父親が酔っ払って交通事故死したなんて、浩三の性格ではよほど辛くて言えなかったのよ。
たんに酔っ払いの怪我で片付けてしまった。
それゆえ、葬儀や忌の行事には出席できなかったのよ。
浩三はいまさら父親の死を、会社の者に言う機会など、きっと見出せないで困っているわ。
だから、浩之のために。
そうよ、小野寺がDNAを調べなければ。
だれにもばれないわ。
子供たちと案ずることなく、この先も生きていけるのよ。
そうよ、浩之さえ、亡くなれば……。
過去を偲ぶ心と今を思う心が、私の中で住むところが違うというの。
有希子は強く自身の気持ちを追及する。
自問自答して、見えてくる自分を発見していた。
これまでの有希子には、小野寺と伊三郎、二人の男の愛を守り通した執念が息づいていたのだ。
これは、有希子にとって、人を愛する資格を得た、と堅持してきたことなのだ。
浩三と三希生。
めいめいの体に異なった男の血が流れていることをしっかり受け止め、だれにも告白せず、誹られることもなく育ててきた。裏切りは、どこにも、一つもない。
こう固執する有希子。
人が欺瞞の愛に溺れると、周りの、いや相手の気持ちすら理解しようと努めない。自分の範疇にしか愛が留まらない。
だから、その人にとって、その愛が自惚れであるはずがない。まやかしであるはずがない。
有希子も、そう自信に満ちて二人の男に捧げてきた。
試練を乗り越えてきた心念の下に、もし恐ろしい醜い愛が存在していても、その愛が罪であるとしても、もはや知るための手がかりも方法もすでにない。
有希子はそう確信する。
軽蔑される生き方はしていない。
なのに、私の脳裏を締め付けるのは、浩三が父親の死を会社の者へ話さなかった不可侵なこと。
そう、もしかして、浩三は本当の父親をすでに見抜いていたのでは?
疑念を抱き妄想に沈む有希子へ、
「へい。すでに浩三坊ちゃんの生い立ちは、発覚しています」
徳治の、赤鬼の滲み出る声が、ぼやけた脳へ語りかけてきた。
有希子は逡巡して下を向く。
目前の土に刺さる、キラッと鋭く光を放つ、凶器にも等しい三角のガラス破片が目に入る。
見入る有希子の胸間に、いやな感じがする行為が徐徐に去来し始めてきた。
浩之を殺す……。
彼女の心中で、恐ろしい志向の渦が巻き始めている。渦巻きが広がりかかると、有希子は、
「いや。だめ」
ひそひそ、奇声を放った。
彼女の声は小野寺には届いていない。
彼はベンチの背にもたれかかり、そ知らぬ顔で煙草を吹かし、辺りの景色に見惚れている。
有希子は自分の発した声に、心の渦巻きが弱まる。
もはや殺人はできません、
私をかばう人は、もう、だれ一人としていないのです。
と、固く信じて疑うことのない判断が、もぐもぐ動き出した。
この先、隠しごとをとおす覚悟など、この年齢では持てません。むしろすべてを喋り解放されたいのです。
いままでは、偽りこそが、私の真実な愛だった。
これからは、隠すことなく愛を育みたいの。
こんなふうに、彼女は自分の愛を感じ取ってしまった。
そうだったのだ。
有希子は昂ぶった感情から覚醒する。
先ほどから、隣には小野寺が一緒だったのだ。
はっきり意識ができる有希子は、過去のすべてのできごとと、自分の気持ちの変遷を、動揺せずに冷然と語れそうな境地なれた。
が、恥ずかしい心持も幾らか残り、嬌笑しながら婀娜っぽい目で小野寺をちらと見た。
「ねぇ、明日もう一泊しません」
小野寺は心底困った顔になり、静かに仰け反った。
有希子は屈せず言葉を続けた。
「今まで、ごめんなさい。私、浩三のこと、というか浩三の真相が話したいの」
小野寺は投げ出していた両足をきちんと正し、体を有希子に向き直ると、
「なぁ、有希」
有希、なんと嬉しい響きだろう。有希子は酔い痴れる思いに、耽りそうになり、小野寺の顔をまじまじと見詰めた。
「うぅん。なぁ、有希」
間を少し空けた小野寺は、
「いまさら真相を知ったところで……。仮に知ったとして、だれが浩三君へ、話せるというのだ」
額に皺を寄せ、ゆっくり空を見上げた。
「それに、真実を知った本人の傷は、どれほどの……」
浩之の会話は途絶えてしまった。項垂れたままの有希子の脳は、停止してしまった。
「戻ろう、会場へ」
翌日。
同級生を乗せたバスは、修善寺に、天城へ。
有希子ら関東在住組みは三島駅で下車し、バスは大津へ走り去って行った。
このコースが中学卒業旅行と同じだったのか、だれもが疑問を抱くことなく同窓会が終ったように、幸福を手に入れるため切り拓いた有希子の人生は、人に疑われることなく向後も続いていた。
しかし、雨雲に蔽われ激しい雨を待っているようで、降れば地面がぬかるみ歩き難くなるような、そんな気持ちの人生だと、有希子は思って暮らしていた。
了
2016年作品